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岐阜城

岐阜城

岐阜城の基本情報

名所岐阜城
別名:稲葉山城
文化財史跡
区分
国の史跡
住所〒500-0000
岐阜県岐阜市金華山天守閣18
☎058-263-4853(岐阜城)
築城1201年
築主二階堂行政
入場料一般200円
小人100円
スタンプ
設置場所
岐阜城資料館


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岐阜城の歴史

岐阜城は鎌倉・室町時代から城があったようですが二階堂行藤が亡くなった後、一度廃城になっています。

廃城となったこの城が修復され、再び歴史の舞台に顔を出すのは15世紀中頃のことで美濃の守護代・斎藤利永が居城としてからです。

戦国時代になり当時、稲葉山城と呼ばれていたこの城は斎藤氏の家臣・長井長弘と長井新左衛門尉が謀叛を起こして、稲葉山城は長井氏の支配下に置かれます。

1533年に長井新左衛門尉がなくなると、その息子である長井新九郎規秀(斎藤利政)が跡を継ぎ城主となりました。この長井新九郎が後の美濃の蝮こと斎藤道三です。

1539年、利政は稲葉山山頂に築城を開始し1541年に利政は美濃の守護であった土岐頼芸の弟・頼満を毒殺し、これをきっかけに土岐氏と斎藤氏の対立が開始されました。

翌年の1542年に利政は土岐頼芸の居城である大桑城を攻め、頼芸とその息子・頼次を尾張へ追放し、実質的に美濃の国主となりました。

尾張へと追放された頼芸は織田信秀の後援を得て、先に追放されていた朝倉氏(越前の一乗谷朝倉氏)の庇護を受けていた頼純と連携し美濃へ侵攻を開始しました。

1547年9月、織田信秀は大規模な稲葉山城攻めを行いますが利政は篭城作戦を決行し、結果、織田信秀の軍を壊滅寸前まで追い詰めました。

1548年、利政は織田信秀と和睦し、自身の娘・帰蝶を信秀の嫡男・信長に輿入れさせました。

1554年、利政は常在寺で剃髪し、鷺山城で隠居生活を送ることにし、家督は息子の義龍に譲りました。

しかし、道三は義龍を無能と評しており、家督を相続させた義龍よりもその弟たちに愛情を注いでいました。

そのこともあり、道三と義龍は反目する様になり、1555年義龍は弟である孫四郎や喜平次たちを殺害、父・道三に対して挙兵しました。

この時、義龍の軍勢17000余り、対して道三はわずか2500。長良川で両軍は戦闘を開始します。

尾張の織田信長も義父に援軍を出しますが間に合わず、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三は63歳で戦死しました。

道三は帰蝶が輿入れした後に信長と正徳寺で会見した時に鉄砲を装備した護衛を多数引き連れ、正装で道三のもとへ現れた信長を見て、「うつけと言われているが、息子たちはあの男の下につくようになる」と驚きながらも信長を見込があると判断したと言われています。

このようにいたく信長を気に入っていた道三は自分の死後、美濃は信長に譲ると遺言を残していました。

それは義龍を無能と評価していたためだと考えられますが長良川での義龍の見事な采配を見て、義龍に対する評価を改めるとともに激しく後悔していたと言われtえいます。

道三の首は義龍側についた旧家臣により手厚く葬られたと言われていますが稲葉山城を追われた長井氏の一族によって鼻をそがれたと言われています。

しかし、5年後の1561年義龍は急死し、わずか13歳の斎藤龍興が城主となり家督を相続しました。

1564年に謀反によって龍興が城を捨てた後、斎藤家の家臣であった竹中達が占拠していた稲葉山城に美濃を狙っていた信長が侵攻を開始し稲葉山城は信長の支配下になりました。

この時、城と城下町の名前は岐阜に改められました。関ヶ原の合戦後、岐阜城は廃城となり天守・櫓・石垣は奥平信昌の加納城へ移されてしまったそうです。

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岐阜城の観光ポイント

上記のような理由から岐阜城の天守は後に鉄筋コンクリートで建設されたもので石垣も当時のものではないようです。

しかし、復興された天守からの眺めはよく、道三が命を落とした長良川や恵那山、木曽の御岳など雄大な自然を眺めることができ市指定史跡になっています。

また、岐阜城に関する資料などを展示した岐阜城史料館もすぐそばにあり、歴史の荒波にもまれた岐阜城に想いを馳せることができます。

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