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岩村城

岩村城

岩村城の基本情報

名所岩村城
別名:霧ヶ城
文化財史跡
区分
県指定史跡
三大山城
日本の秘境100選
住所〒509-7403
岐阜県恵那市岩村町城山
☎0573-43-3057(岩村歴史資料館)
築城1221年
築主遠山景朝
入場料無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
岩村歴史資料館受付窓口


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岩村城の歴史

この城は鎌倉時代からあり、鎌倉幕府の征夷大将軍・源頼朝の重臣である加藤景廉の息子・遠山景朝が築城したと言われています。

しかし、この頃は平坦な場所に砦のようなものが築かれていたようで戦国時代に入り織田氏や武田氏、徳川氏といった力のある戦国大名の抗争が本格化し、本格的な山城が築城されました。

岩村城のある城山は標高717mで類をみないほど高い場所にあることから三大山城の一つとして数えられています。

1571年、当時の岩村城城主・遠山景任が病死すると遠山氏の養子となった信長の5男・織田勝長が入城しました。

しかし、まだ勝長は幼く、代わりに信長の叔母であるおつやの方が女城主として采配を振るいました。

おつやの方は善政を行い、領民からも慕われていたそうです。

しかし、1572年甲斐の武田信玄の家臣・秋山虎繁が岩村城へ侵攻してきました、当初篭城作戦でしのいでいた岩村城ですが織田からの援軍は長島一揆などで岩村城へ到達できませんでした。

そこへ秋山虎繁からおつやの方が虎繁の妻となることを条件に無血開城を求めてきました。

領民や家臣たちの命を守るためにはやむを得ません。おつやの方は条件を受け入れ、岩村城は無血開城しました。

その後は虎繁と共に城下町を守り過ごしました。

ここまでなら敵将でありながら一緒に城下町を守って平和に暮らすいい話なのですが、これには続きがあります。

無血開城をした際に信長の5男・勝長は武田氏に人質として送られていました。

その上、岩村城を武田に乗っ取られた形になった信長は怒りました。

1575年の長篠の戦いで武田勝頼が敗戦すると織田と武田の勢力は逆転し、武田の援軍が望めない中岩村城は半年の篭城を行い、領民と城主の命を守ることを条件に岩村城は開城しました。

しかし、信長は約束を守ることなくおつやの方と虎繁は磔(はりつけ)にされ、その生涯に幕を下ろしました。

江戸時代には山頂にあった城主の居館は山麓にうつされ、城下町が整備されましたが1873年廃城令により城は石垣を残して解体されてしまいました。

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岩村城の観光ポイント

建物こそないものの石垣の保存状態は非常によく、曲輪の様子や井戸などを見ることができ県指定史跡にも指定されています。

この地は霧がわきやすく、岩村城は別名霧ヶ城とも呼ばれています。この霧ですが伝説が残っています。

岩村城には城主専用の井戸があり、敵が攻めてきた時に秘蔵の大蛇の骨を井戸に投げ込むとたちまち霧がわき城を守ったそうです。

この井戸は霧ヶ井と呼ばれ、今でも岩村城の遺構の一つとして残されています。

山頂にあり、さらには霧がわきやすい気象条件がそろっている岩村城は日本の秘境100選にも選ばれていますが主邸跡にある岩村歴史資料館から登場坂の石畳を登っていけば30分ほどで本丸に到着することができます。

この城は無血開城には至ったものの難攻不落の名城で石垣などから当時の様子をうかがい知ることができます。

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