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竹田城

竹田城

竹田城の基本情報

名所竹田城
別名:虎臥城
文化財史跡
区分
国の史跡
住所〒669-5252
兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169
☎079-674-2120(情報館天空の城)
築城1431年
築主山名宗全
入場料一般(高校生以上)400円
※中学生以下は無料
スタンプ
設置場所
①JR竹田駅内(わだやま観光案内所)
②竹田城跡の料金所
③山城の郷
④情報館「天空の城」









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竹田城の歴史

城下から高く見上げる位置に築城された山城で日本のマチュピチュとも呼ばれています。

竹田城は当時、播磨と丹波の出入り口に位置しており、山名宗全によって築城され、初代城主として太田垣光景が任命されたという伝承が残っています。

竹田城が築城された頃は但馬守護であった山名氏と播磨の守護であった赤松氏の間で幾度となく軍事衝突が起こっていました。

この発端となったのは1441年6月に起きた赤松満祐による室町幕府6代将軍・足利義教暗殺で、幕府による赤松追討軍に山名宗全が志願したためです。

同年8月幕府から追討の命を受けた宗全は自身の一族を動員して播磨を3方向から攻め、9月城山城にいた赤松満祐を打ち滅ぼしました。

10月、宗全はその恩賞として播磨国守護に任命され播磨に入国しました。

播磨の守護代には太田垣氏を任命し、赤松氏の掃討作戦を実施、赤松氏も山名氏に対して抵抗を見せますが自刃や逃亡など山名氏に敗戦しました。

赤松氏を滅ぼした山名氏は旧赤松領も含めて併せて8か国の守護となり、勢力も拡大していきました。

順調に見えた山名氏ですが細川勝元が赤松満祐の弟の孫・赤松正則を支援し、加賀半国の守護として赤松家を再興させてしまいます。

元々、中が悪かったわけではない山名氏と細川氏がですが赤松家再興を受けて勘合貿易の問題で細川氏と対立していた大内教弘・政弘父子を宗全が支援するなど対立関係になっていきます。

そしてついに1467年に応仁の乱が勃発し、細川氏と山名氏は但馬で争いを起こしました。

1468年には夜久野から但馬へ侵攻しようとしていた細川氏側の内藤軍を竹田城の城代太田垣氏の軍が迎え撃ち、少人数ながらも大将二人を討ちとるなど武功をあげました。

応仁の乱が治まったあとも細川氏や赤松氏の脅威は続き、宗全の孫・山名政豊と赤松政則は播磨を巡って争いを続け、1488年、山名氏が敗戦すると内紛が発生、1522年にはついに赤松氏によって山名軍は追放されました。

安土桃山時代になり毛利元就に滅ぼされた尼子氏は1569年、元成が九州で大友氏と争っている隙をついて出雲を取り戻すために挙兵し、これを以前尼子氏と同盟を結んでいた山名祐豊が支援しました。

元成は信長に但馬出兵を依頼し、応じた信長は20000の秀吉軍を派兵、わずか10日という短期間に18もの城を落としました。

山名祐豊は此隅山城から境に亡命し、同年末には信長に一千貫を渡し但馬への復帰を遂げました。

1573年、吉川元春など毛利軍は尼子軍を撃破しながら但馬へ進軍、竹田城の太田垣氏は毛利軍に降伏し、1575年に山名氏と吉川元春の間で芸但同盟が成立、危機が去ったように見えたところへ丹波の赤鬼・荻野直正が竹田城を占領、山名氏は信長に救援を求め、それを受けた信長は明智光秀の軍を派兵し荻野直正を撤退させました。

信長と毛利氏の中が次第に悪化し、1577年竹田城の戦いが勃発、信長の配下、秀吉軍と竹田城の太田垣氏の戦いは秀吉の勝利で幕を閉じ、竹田城は攻略され秀吉の弟・秀長の武将桑山重晴が竹田城主となりました。

その後、重晴が和歌山城に転封となると秀吉に投降した龍野城城主・赤松広秀が竹田城に入城し、現在の竹田城を完成しました。

関ヶ原の戦いでは城主の赤松氏は西軍に属していましたが敗戦し、東軍の亀井氏の誘いで鳥取城を攻め落城させますが、城下の大火の責任を取らされ広秀は切腹、その後家康の命で山名豊国が竹田城に入城しますが江戸幕府の方針により竹田城は廃城となりました。
 
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竹田城の観光ポイント

竹田城といえばCMでも使用された見事な雲海です。

特に晩秋の空気が冷えてきた時期、良く晴れた早朝に発生することが多いそうです。

城跡が雲海に浮かぶ様子は天空の城とも呼ばれ、幻想的な雰囲気を醸し出しています。

また、建物こそ残ってはいないものの曲輪の全てを取り囲んでいた石垣を見ることができます。

この石垣は安土桃山時代に活躍した穴太衆によって施工されたもので積み方としては野面積みで積まれており、竹田城の石垣は安土城の技法と酷似しているそうです。

竹田城跡へは最終的に徒歩で行くことになりますが山頂にあるため、服装などには注意が必要です。
 

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