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一乗谷城

一乗谷城

一乗谷城の基本情報

名所一乗谷城
文化財史跡
区分
国の特別史跡
特別名勝
住所〒910-2153
福井県福井市城戸ノ内町28-37
☎0776-41-2330(一般社団法人 朝倉氏遺跡保存協会)
築城南北朝時代
築主朝倉氏
入場料無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
復原町並入口(北・南)









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一乗谷城の歴史

一乗谷城は南北朝時代に築城された山城で麓(ふもと)には朝倉氏や家臣の館などがありました。

山城から麓にある城下町と館跡まで含めて「一乗谷朝倉氏遺跡」として国の特別史跡に指定されています。

一乗谷城は朝倉氏の居館の背後にあり、曲輪や空堀などの遺構も残っています。

本丸は山頂ではなく60mほど下がった場所にあり現在は千畳敷と呼ばれています。

この本丸は二の丸や三の丸に比べると新しく、義景の時に造営されたと考えられています。

一乗谷には応仁の乱の際に多くの公家や高僧、学者などが避難して来ていました。

そのため、一乗谷は北の京と呼ばれるほどに発展し、華やかな京文化も伝わりました。

その繁栄の様子は室町幕府の10代将軍・足利義稙が朝倉氏を頼って来訪していたことからも推し量ることができます。

戦国時代には5代朝倉義景が足利義昭を安養寺に向かえますが義昭は上洛するために織田信長を頼り一乗谷を後にしました。

明智光秀の計らいで美濃の立正時にむかえられた義昭は織田信長に奉じられ室町幕府15代将軍に就任しました。

しかし、義昭の下に入る気が無い信長は副将軍や管領就任を拒絶し、義昭と信長は次第に対立関係になっていきます。

そこで信長は畿内を支配するために将軍の権威を利用して朝倉氏を京へ来るように命令を出しますが朝倉氏はそれを拒否、それを受けて織田信長は朝倉氏に叛意ありと一乗谷攻めを開始しました。

1570年姉川の戦い・志賀の陣を経て11月には和睦の調停が行われましたが1573年8月13日敗走する朝倉氏を信長は自ら指揮をとり、徹底的に追撃し15日一乗谷に帰陣した義景のもとへ馳せ参じる武将はおらず、18日一乗谷は信長によって焼き払われてしまいました。
 
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一乗谷城の観光ポイント

現在は発掘調査も進み、城下町が復元されているなど見どころ満載です。

山城である一乗谷城までは八幡神社からでも徒歩で片道50分、下木戸からは片道70分とかなりの距離があります。

そこで一乗谷城へきたら是非とも麓にある一乗谷朝倉氏の居館跡や復元された街並を堪能することをオススメします。

特に朝倉氏の居館跡にある湯殿跡庭園・南陽寺庭園・諏訪館庭園・朝倉館跡庭園の4庭園は全てが国の特別名勝に指定されています。

その他、堀に面して建つ唐門は朝倉氏館そのものの遺構では無いものの朝倉氏の紋が刻み込まれています。
 

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