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高取城

高取城

高取城の基本情報

名所高取城
別名:芙蓉城
住所〒635-0101
奈良県高市郡高取町大字高取
☎0744-52-1150(高取観光案内所:夢創館)
築城1332年
築主越智邦純
文化財史跡
区分
国の史跡
三大山城
入場料無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
高取観光案内所:夢創館


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高取城の歴史

高取城は標高583mの高取山に築かれた城で日本の三大山城の一つです。

築城の歴史は古く南北朝時代に貝吹山城を本城としていた越智氏の支城として築城され、戦国時代には高取城が越智氏の本城として機能していたようです。

1532年飯盛城の戦いで勝利を収めた一向一揆衆の証如軍は大和国に侵攻してきました。

証如軍(浄土真宗本願寺派)と対立関係にあった興福寺(法相宗)の僧兵たちは越智氏に助けを求め、一時は高取城を包囲されましたが背後に迫った筒井軍に襲撃され証如軍は敗走しました。

その後、信長によって大和国内の城は郡山城のみと定められ、高取城は廃城となりました。

1582年、本能寺の変で織田信長が死去し、1583年越智氏は筒井順慶の配下となっていましたが越智頼秀が死去し越智氏は滅亡しました。

1584年、信長により廃城された高取城を筒井順慶が自身の支城の一つとして本格的な城塞へと改修、1585年筒井氏は伊賀国上野へ転封となり、高取城へは秀吉の異父弟・豊臣秀長の重臣である脇坂安治が入城しましたが後に同じく重臣の本多利久に与えられました。

高取城は国内でも最大規模の山城で天守や櫓が29棟を有する連郭式山城ですがこの縄張りは本多利久の時代のものです。

高取城に入城した利久は家臣・諸木大膳に命じ新しく縄張りし、本丸には多聞櫓で連結した大小天守、二の丸には大名屋敷、城内には三重櫓が17基建てられました。

家臣たちは高取城のある高取山の麓(ふもと)に住み、城下町も整備されました。

1595年、秀長の後を継いだ秀保が若くして死去すると利久の子・俊政は秀吉の直臣となり1万5000石が与えられ、秀吉が死去した後は徳川家康につきました。

1600年、家康が上杉景勝を討伐した際、俊政は上杉討伐軍に参加しており不在でした。

その隙をついて西軍の石田三成が高取城を攻めましたが留守を預かっていた俊政の従兄弟・正広は高取城の要害で敗退させました。

関ヶ原の戦いで東軍に与した功が認められ、俊政は1万石の加増を受け、高取藩2万5000石の初代藩主になりましたが俊政の子・政武には後継ぎがいなかったため、政武の死後は旗本の植村氏が城主を務めました。

幕末には藩主御殿が麓に移され、天誅組の変で攻撃を受けましたが、その他の城郭は無事だったようです。

1873年、高取城は廃城となりましたがその建物は大半が寺院などに売却され、旧二の門は子嶋寺の山門になっています。

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高取城の観光ポイント

現在、城跡には建物は残っていませんが当時の城郭の様子を偲ばせる石垣などの遺構は残っています。

その他の遺構として移築されたものとして松ノ門が児童公園の表門に新御殿の表門は石川院の表門になっているようです。

高取城趾からの眺望は見事ですが整備されているとはいえ城跡まで登山道を徒歩でいかなければならないので、それなりの装備が必要になります。

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