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備中松山城

備中松山城

備中松山城の基本情報

名所備中松山城
別名:高梁城
文化財史跡
区分
国の史跡
現存天守
三大山城
住所〒716-0004
岡山県高梁市内山下1
☎0866-22-1487(備中松山城管理事務所)
築城1240年
築主秋庭三郎重信
入場料一般300円
小中学生150円
スタンプ
設置場所
備中松山城券売所


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備中松山城の歴史

備中松山城は日本三大山城の一つとしても数えられている城です。

1240年に築城した秋庭三郎重信がこの地の地頭となり、大松山に最初の城を作りました。

その後、1331年頃には高橋宗康が小松山にまで城を拡張しました。

さらに戦国時代になり、三村元親が城主を務めた時代には大松山と小松山に跨る大規模な城塞となりました。

1570年、元親が備中に侵攻してきた宇喜多直家を迎え撃つために出撃した折には、直家と通じていた庄高資・勝資父子によって備中松山城が占拠されましたが翌年の1571年には奪還を果たしました。

1574年、毛利氏の元から離反した元親は織田信長の下に与し、1575年にかけて毛利氏と争いを続けました。

しかし、毛利方で厳島の戦いで水軍を率いて毛利軍の勝利に大きく貢献した小早川隆景が備中松山城を落とし、城主・元親は自害、この備中兵乱の後は毛利氏の領有地となりました。

1600年、関ヶ原の戦いにおいて毛利氏は西軍に属し、徳川家康率いる東軍に敗戦を喫しました。

徳川幕府は備中松山城に城番として小堀正次をおき、現在、岡山県立高梁高等学校がある場所にあった御根小屋はこの頃に作られたものだと言われています。

1617年、因幡鳥取藩の第2代藩主・池田長幸が6万3000石で入城し、備中松山藩が成立しました。

1641年に2代目の藩主・長常は後継ぎがいないまま死去してしまったため、池田家は断絶し、備後福山藩主の水野勝成の家臣が城番となりました。

翌1642年、水谷勝隆が5万石で入封し、城主が水谷氏に代わってから2代目の勝宗は城の大改築を行い、天守なども造られました。

しかし、水谷氏も3代目の勝美が後継ぎなく死去したため、養子を迎えましたが、その勝晴も13歳で早世し水谷家は断絶しました。

水谷家断絶後も安藤氏、石川氏が入封しましたが転封となり、1744年に5万石で伊勢亀山藩から板倉勝澄が入城し以降明治時代まで城主を務めました。

1868年、戊辰戦争で朝敵とされた備中松山藩は陽明学者(王陽明が起こした儒教の一派)・山田方谷の決断で無血開城し、1873年の廃城令により、御根小屋は取り壊され、山城は新政府によって売却されましたが、山にあった城は解体されず、次第に荒廃していきましたが昭和初期に山城が調査され、備中松山城は修復されることになりました。

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備中松山城の観光ポイント

備中松山城は数少ない現存天守がある城です。

この天守は標高430mの臥牛山の山頂付近にあるため、現存天守を持つ山城の中では最も標高が高い場所にあり、国の重要文化財に指定されています。

最初の築城が古い備中松山城では曲輪や堀切などの中世城郭の遺構と建物や石垣などの近世城郭の遺構の両方を見ることができます。

備中松山城が築城された鎌倉時代から城主が激しく入れ替わった戦国時代には、戦うための城であったことを考えると山頂に天守がそびえる備中松山城は自然要害を有する城であり、難攻不落を謳われる城の一つであったと考えられます。

現在、備中松山城と呼ばれているところは近世城郭の遺構が残る場所が中心となっており、現存天守の他、こちらも重要文化財に指定されている三の平櫓東土塀を見ることができます。

壁は漆喰で白く、腰板などは黒いため色のコントラストも美しく、天気が良い日には青い空の色も加わって、その姿に目を奪われます。

しかし、三大山城に数えられている城なので整備されているとはいえ、本丸までの道は滑りやすい部分もあり、動きやすい服装や靴で行くことをオススメします。

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