伊賀上野城
伊賀上野城の基本情報
名所 | 伊賀上野城 別名:白鳳城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 |
住所 | 〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内106 ☎0595-21-3148(伊賀文化産業協会) |
築城 | 1585年 |
築主 | 筒井定次 |
入場料 | 一般500円 小人200円 |
スタンプ 設置場所 | 大天守閣1階 |
伊賀上野城の歴史
元々要塞として利用されていた平楽寺や仁木氏の館があった場所で、その跡地に1581年織田信長の次男である織田信雄の家臣・滝川雄利が砦を築いていました。1584年に織田信雄が津川義冬ら3家老を羽柴秀吉に通じたとして殺害し、小牧・長久手の戦いを起こすと同じく信雄の家老であった滝川も秀吉から誘いを受けましたがこれを拒絶します。
信雄の命を受けて日置大膳亮とともに松ヶ島城にて徳川陣営の服部正成の援軍をうけ40日にも及ぶ篭城を決行しましたが、奮戦するも及ばず松ヶ島城を開城して終わりに退き、北伊勢の浜田城に入り篭城しました。
開戦から半年以上たった11月12日、秀吉側に伊賀と伊勢の半分を譲ることを条件に信雄に講和を申し入れ小牧・長久手の戦いは終わりました。
その後、秀吉に譲られた伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方の大名にわけ与えられ、伊賀は脇坂安治に与えられました。
伊賀を譲り受けた脇坂は小牧・長久手の戦いにおいて滝川がこの地に築いた砦を落城させた人物です。
1584年、叔父で養父の大和守護・筒井順慶が死去したため家督を相続していた筒井定次も豊臣家の家臣として小牧・長久手の戦いに参戦していました。
1585年、秀吉が領国内で大規模な国替えを行い、畿内を秀吉の一門と近臣で固める策をとったため大和国には秀吉の弟・羽柴秀長が入国し、定次は伊賀上野へと移封になりました。
定次は滝川氏の砦跡を改修し伊賀上野城を築城、九州征伐や小田原征伐などに参加しました。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川率いる東軍に属し戦後所領を安堵されましたが1608年かねてより続いていた筒井家のお家騒動が表面化し、実績を握っていた中坊秀祐が徳川家康に定次の悪政や倦怠を訴え、筒井氏は改易され大名としての筒井氏は滅亡しました。
代わって1611年、家康の命を受けた築城の名手・藤堂高虎が伊賀上野城の拡張を開始しますが途中で敵対していた豊臣氏が滅亡し、築城が中止されてしまいました。
そのため、伊賀上野城は本丸や二の丸などを含め城代屋敷以外は未完成のままとなりました。
伊賀上野城の観光ポイント
現在は上野公園として整備されています。現在ある天守は昭和初期に建てられた模擬天守ですが石垣と内堀は藤堂高虎が城を拡張した当時のもので見ごたえがあります。また、模擬天守の中は藤堂家に縁のある品などが展示されています。有名な藤堂高虎の兜もありますよ。
他に公園内には伊賀流忍者博物館などがある他、松尾芭蕉を祀る俳聖殿や記念館があります。
建物としては武庫蔵が現存していますが高校の敷地内にあるのだそうです。