高松城
高松城の基本情報
名所 | 高松城 別名:玉藻城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 三大水城 |
住所 | 〒760-0030 香川県高松市玉藻町2-1 ☎087-851-1521(玉藻公園管理事務所) |
築城 | 1590年 |
築主 | 生駒親正 |
入場料 | 玉藻公園(高松城跡):一般200円小人(6歳以上16歳未満)100円 |
スタンプ 設置場所 | ①高松城東 ②西入口 ③玉藻公園管理事務所 |
高松城の歴史
別名を玉藻城ともいう讃岐高松城は今治城・中津城と並んで三大水城としても良く知られています。この玉藻城という別名は歌人として有名な柿本人麻呂が万葉集で讃岐国の枕言葉として「玉藻よし」と詠んだことに由来し、高松城の周辺にあたる海域が玉藻の浦と呼ばれていたことからこのような別名がついています。
岡山県にも高松城があることから岡山県の方を備中高松城、香川県の方を讃岐高松城と呼び分ける場合もあります。
この城は豊臣秀吉が四国征伐を行ったあと1587年に讃岐一国を与えられた生駒親正によって築城された城で、元々港町であったところに建てられました。
1587年当時、生駒親正が入城したのは現在の香川県東かがわ市にあった引田城でしたが引田城は手狭であったため、同年中には別の城へと移っています。
しかし、その城も不便を感じた親正は1588年に高松城を築城開始し、1590年に完成、以降は生駒氏の居城となります。
1600年の関ヶ原の戦いでは信長の死後秀吉の家臣として仕えていた親正は西軍に与して丹後国田辺城攻めに家臣を派遣し、親正の息子・一正は東軍に与し関ヶ原本戦では武功をあげました。
親正は西軍に与していたものの息子の武功によりお咎めもなく、江戸時代に入り生駒氏は高松藩の藩主となりました。
1601年には一正が家督を相続し、1603年に親正は死去しましたが親正含め4代にわたって高松藩を治めました。
しかし、1640年4代目藩主・生駒高俊の時にお家騒動が起こり生駒氏は改易され、出羽国矢島藩に転封されました。
その後、一時は西条藩・大洲藩・今治藩の3藩が分割統治を行いましたが1642年、水戸徳川家初代藩主の徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し高松藩が成立、これには西国諸藩の動きを監視する役割があったと言われています。
本来であれば頼重は長男なので水戸藩主を継ぐのですが頼重の父・頼房は自身の二人の兄よりも先に男子が生まれたため、それを憚ってのことと言われています。
ちなみに頼房の後をついで水戸藩主になったのは、頼房の三男で水戸黄門としてもおなじみの光圀です。
光圀は自身の後の水戸藩主には兄・頼重の子をむかえ、自分の息子は高松藩主に据えています。
頼重以降、11代にわたって水戸松平家が藩主を務め、第5代藩主・頼恭は平賀源内に薬草園を造らせ、医師の向山周慶には製糖技術を学ばせ白糖の製造を可能にしました。
讃岐の和三盆糖は今でも有名ですがこの頃に技術が確立されていました。
幕末には水戸藩が尊王に傾きましたが1868年の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍についたため朝敵となりました。
しかし、高松藩は家老二人を切腹させ、当時の藩主・頼聰は浄願寺にて謹慎し、先代藩主頼胤は江戸にて謹慎しました。
高松城は無血開城し、翌月には頼聰の謝罪に応じて土佐藩は高松城を返還し撤退しました。
高松城の観光ポイント
版籍奉還後、廃城となった高松城は老朽化した天守が取り壊され、高松空襲によって三ノ丸の桜御門が焼失してしまいましたが北の丸にある月見櫓、水手御門、渡櫓、旧東の丸の艮櫓が国の重要文化財に指定されています。2013年には天守台の一般公開も始まりました。
築城当時は外郭が海に面していたことから水城特有の水手御門があるのが特徴で内陸部にある城では見ることができない貴重なものです。