長篠城
長篠城の基本情報
名所 | 長篠城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 |
住所 | 〒441-4634 愛知県新城市長篠市場22 ☎0536-32-0162(新城市長篠城址史跡保存館) |
築城 | 1508年 |
築主 | 菅沼元成 |
入場料 | 無料(見学自由) |
スタンプ 設置場所 | 長篠城址史跡保存館 |
長篠城の歴史
1508年に現在の豊川と宇連川の合流する場所の崖の上に菅沼元成が築城した城です。川と断崖絶壁という天然の要害を持ちながらも堀が掘られていました。
これは北側が台地上に平地が広がっていた地形のためでしっかりとした濠を作り、北側の守りを固めたためです。
菅沼氏は築城当時、三河へ進出してきた今川氏に従属していましたが松平元康(徳川家康)が独立すると徳川家康に臣従しました。
1571年に武田信玄が三河へ侵攻し、長篠城は天野景貫による攻撃を受け陥落することは免れたものの、菅沼総領家である田峯菅沼氏の使者に説得され、当時の城主であった菅沼正貞は武田に従うことを決めました。
1573年、西へ向かって侵攻を続けていた武田軍ですが信玄が病に倒れ甲斐へと戻る途中で死去すると、その隙に徳川家康が長篠城を攻撃し、同年8月に城主・菅沼正貞は長篠城を開城し退去しました。
家康は武田の再侵攻に備えて長篠城に大規模な土塁を築くなど拡張を行いました。
1575年、武田の家督を継いだ信玄の4男・武田勝頼が長篠城に攻め込み長篠の戦いが開戦、当時長篠城を守っていたのは家康の娘婿・奥平信昌で15000人の武田軍に対して手勢が500名でした。
守備隊は鉄砲や大鉄砲を装備しており、武田の猛攻の前に何とか持ちこたえていましたが兵糧蔵が焼失し、食料がなくなってしまったことで落城の危機にさらされます。
しかし、徳川・織田の連合軍が救援に到着し、事態は急変し武田軍は大敗します。
1576年、長篠城は前年の戦いの傷跡大きく、城主・奥平信昌(奥平貞昌)は新城城を築城し長篠城は廃城となりました。
長篠城の観光ポイント
現在は建物などは残っていませんが本丸があった辺りには徳川家康が拡張した際に築いたと思われる大規模な土塁や空堀が残っています。また、現在は宅地や農地になっている城の北側でも一部で石垣が残っているようです。
武田騎馬隊と織田の鉄砲隊で知られる長篠の戦いについては長篠城趾歴史保存館に様々な資料が展示されています。
そこでは長篠城城主・奥平信昌の家臣で陰の立役者・鳥居強右衛門の勇気ある行動についても知ることができます。