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千早城

千早城

千早城の基本情報

名所千早城
文化財史跡
区分
国の史跡
住所〒585-0051
大阪府南河内郡千早赤坂村大字千早1228
☎0721-72-1447(千早赤阪村役場)
築城1332年
築主楠木正成
入場料無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
①金剛山山麓「まつまさ」
②千早城跡茶屋※不定期


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千早城の歴史

鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけての楠木正成の城で連郭式山城です。

楠木七城の一つで四方が崖に囲まれています。

千早城は千早川の渓谷を利用しており、四方は深い谷に囲まれて城の背後だけが金剛山の山頂へと通じている自然の要害を有する城でした。

金剛山は軍事的にも交通の視点からも重要な千早街道を上り詰めたところにある山で千早街道は大和国と河内国を結ぶ最短ルートでもありました。

楠木正成は近くに下赤坂城と上赤坂城という二つの城をもっていましたが、下赤坂城は急造した城で長期戦には不向きでした。そこで正成は自ら下赤坂城に火を放ちました。

鎌倉幕府の軍勢は下赤坂城からみつかった焼死体を楠木正成とその一族だと勘違いし帰陣しました。

1333年上赤坂城にて開戦、鎌倉幕府軍に水の供給を断たれ、守備隊を率いていた平野将監が降伏、その後数日間持ちこたえるも同じく上赤坂城の守備隊であった楠木正季が千早城へ退くと上赤坂城はついに落城しました 。

鎌倉幕府軍は千早城へ大軍を向け攻撃を開始します。

この時、千早城ではわずか1000人ほどの兵が櫓から大きな石を落とすなどして応戦し、逃げ惑う兵に向けて矢を放ちました。

千早城の下の谷底には敵の死体が山となったそうです。

上赤坂城で水の供給を断ち勝利した幕府軍は千早城の水源を断ちましたが城内には水も食料も十分に蓄えられていました。

籠城戦が長引く中、楠木正成の奇策により幕府軍はなかなか千早城を攻略できずにいました。

こうして幕府軍が千早城で足止めされている間に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、倒幕に向けて動き出しました。

これを受けて播磨国の赤松氏、伊予国の河野氏、肥後国の菊池氏が蜂起すると千早城を取り囲んでいた守護が相次いで離脱し帰国しました。

また、千早城へ兵を向けて鎌倉が手薄になっている隙をついて関東で挙兵した新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなりました。

同年の建武の新政以降千早城は南朝方の楠木氏の居城となりましたが1392年楠木正勝が城主の時、北朝方の畠山基国に攻撃され千早城は落城しました。

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千早城の観光ポイント

遺構として残っているのは曲輪と空堀のみです。櫓跡には石垣が見られますがこの時代のものではないようです。

二の丸には千早神社があります。

千早城へは金剛山登山口から行くことができますが城内で一番広い四ノ丸へは千早地区の駐在所があるあたりから山頂へとつづく長い階段でも行くことができるようです。

四ノ丸へ出たらさらに奥へと進むと二の丸(千早神社)があり、御社の裏側で一番高いところが本丸だった場所だと考えられています。

このあたりには楠木正成にまつわる下赤坂城跡や上赤坂城跡もある他、道の駅などもある楠公誕生地には楠木正成産湯の井戸もあり、今でも水が湧き出ています。

千早城へお越しの際は今でも人気のある楠木正成にまつわる場所を巡るのもオススメです。

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