掛川城
掛川城の基本情報
名所 | 掛川城 別名:雲霧城・松尾城 |
文化財史跡 区分 | ― |
住所 | 〒436-0079 静岡県掛川市掛川1138-24 ☎0537-22-1146(掛川城管理事務所) |
築城 | 1469~1487年頃 |
築主 | 朝比奈泰煕 |
入場料 | 一般410円 小中学生150円 |
スタンプ 設置場所 | 掛川城御殿 |
掛川城の歴史
室町時代中期に駿河国の守護大名であった今川義忠が重臣であった朝比奈泰煕に命じて築城したのが掛川城です。この城は代々朝比奈氏が城主を務めていましたが1568年主君の今川氏が三河の徳川家康と甲斐の武田信玄から挟み撃ちされ、当時の当主であった今川氏真は掛川城へと逃げ延びました。
しかし、掛川城は今川を追ってきた徳川勢に包囲されてしまいます。
朝比奈の当時の当主泰朝は巧みに城を守り落城を免れていましたが圧倒的な兵力の差を前に自身の主君である氏真の身の安全を家康に約束させると掛川城を開城しました。
1569年、掛川城を開城した城主の朝比奈泰朝と主君の今川氏真は、今川氏の主君小田原北条氏を頼って相模の小田原城へと退却しました。
かわりに掛川城へは家康の家臣・石川家成親子が入城しました。
そののち、駿河に侵攻した武田信玄と徳川家康が敵対し、掛川城の近くでも激しい戦闘が行われましたが掛川城は1582年に武田氏が信長の手によって滅亡するまで徳川氏が支配するところとなりました。
徳川の支配下においても城代は石川氏が務め、1590年小田原征伐が行われると徳川家康の関東移封に伴い掛川城には豊臣秀吉の直進・山内一豊が入城し、石垣や建物・天守など城の大規模な拡張を実施しました。
一豊は秀吉の死後は五大老であった徳川家康に従い、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し岐阜城を攻めるなど武功をあげた他、小山会議で諸侯を徳川側に引き込んだ発言が高く評価され、土佐一国を与えられました。
山内一豊が高知城へ入城した後、掛川城は度々城主を代えましたが最終的には太田道灌の一族である太田氏が入城しました。
太田氏も掛川城を修築するなどしましたが、1854年に起こった東海地方の大地震により天守など多くの建物が崩壊してしまいました。
そののち天守が再建されることはありませんでしたが国の重要文化財に指定されている二の丸御殿は政務が行われていた場所でもあるので再建が行われました。
掛川城の観光ポイント
現在は天守も復元されており、この復元天守は日本で最初の木造の復元天守で和釘が使用されているそうです。その他、石垣や堀の一部が現存しており、重要文化財でもある二の丸御殿は見学ができます。
内部は当時の面影を色濃く残しており風情があります。
また、三の丸から本丸に移築された太鼓櫓が現存する他、掛川城から移築された玄関下御門が袋井市の油山寺の山門となっており、こちらも国の重要文化財に指定されています。