熊本城を10倍楽しむ観光ポイント
熊本城の天守再建を待つ城マニア達
日本の三名城の一つと言われる熊本城。力強さの中に細やかな仕掛けや優美な内装がされ、何度足を運んでも見飽きることはありません。熊本城天守は、昭和35年(1960年)に総工費1億8000万円をかけて再建されました。
しかし、平成28年に起きた熊本地震で瓦の落下や崩れや石垣の崩落があり、現在修復工事に入っています。
今は天守閣に入ることは出来ませんが、改修工事前までは四面に配した千鳥破風や最上階の南北につくられた唐破風の美しい作りとなり、大天守には戦いに備えて武具が納められ、小天守には忍び返しが備え付けられていました。
戦いに常に万全だった様子が見受けられますね。
日本全国の城マニア達が、熊本城の元気な姿が見られる日を心待ちにしています。
飯田丸五階櫓奇跡の一本石垣は熊本城復興のシンボル
奇跡の一本石垣と呼ばれた飯田丸の応急工事が完了しました。これで崩落する恐れが無くなったから大変嬉しい🙌 pic.twitter.com/A6nLTdt1zH
— 加藤清正 (@higonotora) 2016年8月2日
現在、熊本城の中にある飯田丸五階櫓(江戸時代は「西竹之丸」)は平成17年(2005年)年に復元されました。
ここには当時、台所や水汲み場、戦う際に使う鉄砲が備えられていて防衛の要の役割をしていました。
しかし、平成28年に発生した熊本地震で石垣の主要部分が崩壊してしまい残ったのは1本の隅石。テレビでも話題となり「奇跡の一本石垣」と呼ばれています。
修復工事では、この一本石垣を崩すことなく修繕して行く計画となり、この工事に携わる職人の方達の技術は素晴らしく「鉄の腕」で支える映像を見た方も多いと思います。
2018年5月現在、石垣は板で囲われ内部を球状の樹脂で補強し崩壊を止めています。
2018年夏には全ての櫓を解体し、本格的に石垣の復旧工事に移る予定です。
熊本城本丸御殿は大名文化の集大成
平成20年(2008年)に10年間かけて復元された熊本城の本丸御殿は、行政の場・生活空間として使われていました。また、本丸御殿の中でもっとも美しく、大名文化の集大成とも言える格式の高い部屋が「昭君之間」です。
壁や襖には障壁画が描かれ、天井には金箔を使って作られた60枚の天井画を見られます。
しかし、平成28年に発生した熊本地震の影響により、現在は入場に制限されています。※2018年現在
宇土櫓(三の天守)は熊本城天守と同等の大きさ
熊本城の中にある宇土櫓(うとやぐら)は3層5階地下1階建からなり、櫓としては大きく地上から19メートルあり天守閣と同等の大きさになります。名前から宇土城天守閣を移築した説が以前はありましたが平成元年(1989年)に解体修理がされた時に明解な証拠が見つからなかったため、宇土城天守閣の仮説は現在弱いものとなっています。
宇土櫓には鯱(しゃちほこ)があり、昭和2年(1927年)に陸軍が解体修理を行った時、城内に保管してある鯱を宇土櫓の屋根に取り付けられ、またの名を“三の天守”と呼ばれています。
しかし、どのような指示があって取り付けられたのかは定かではないようです。
二様の石垣では石垣作りの進化がわかる
熊本城には他の城では見られない珍しい石垣があります。一度積まれた石垣に対し、本丸御殿を増築する際に石垣の増築が必要となったことから継ぎ足された石垣があります。
これは「二様の石垣」と呼ばれ、石垣は積まれた時代が異なり、初めに作られた石垣は重ね積みになっていて継足しされた石垣は算木積みになっています。
石垣作りの技術の進化を一度に見ることのできる貴重な場所です。
熊本城の闇り通路は貴重なスポット
熊本城には、本丸御殿と大天守閣をつなぐ地下通路があります。地下通路と聞くと敵から身を守る為の隠し通路ではないかと思いますが正式な通路です。ここを通らなければ先に進むことが出来ません。
このような構造は大変珍しく、日本のお城の中では熊本城以外にはありません。
地下通路なので日中はほぼ真っ暗ですが、多くの赤松により頑丈に支え作られていますのでそうそうに崩れたりはしません。
写真で見るよりも実際に体感して頂きたい場所です。
熊本城の昭君之間はミステリアスな部屋
昭君之間は本丸御殿大広間にあり、ため息が出るほどに美しく最も格式のある部屋と言われています。昭君之間には色々な説があり、「将軍之間」の隠語であるという説は、豊臣秀吉の子供の豊臣秀頼の身に何かあった際はこちらに身を置けるよう造られたのではと伝えられ、構造も隠し扉があって逃げることを想定した造りとなっています。
また、築城に携わった大工の覚書には「昭君の間のうしろに 秘密の間があって、壁がまわると地下に降りられるようになっており、そこから不浄門に出て、小豆坂へ道が続いていた」と残されています。
当時の永棟節(地搗歌)にはこんな歌も残っています。
「機密部屋 言うな 語るな 御法度ばい 抜け道や どっちかい 小豆坂 なるほど 契る 秋茄子 言うな 話すな 黙っとれ 内緒 内緒」現在の様に明確な記録が残っていないため、これが真相なのかは定かではありません。
こうした謎めいた説を考えると歴史のロマンが感じられますね。
不揃いな石の階段の意味
熊本城が戦いに対して非常に万全に造られた城だとわかるのが、飯田丸から天守へ向う石の階段です。こちらの階段は段差や高さが不揃いとなっています。
これは一段ずつ石の高さや長さを変えて組み合わせて足場を悪くさせ、敵が天守まで登るのに時間をかけさせるためだと言われています。※右写真はイメージです。
熊本城は納得の難攻不落
難攻不落の要塞を築城した加藤清正を現代で表現するなら「防護マニア」と言われるほど、防護に対して気を使い熊本城を設計したと言われています。その理由としては、場内には66もの櫓を建てて天守に向かう経路はクランク状に設計がされ、更に銃座が仕込まれているのでどんな敵であっても場内からは天守へ近付くことを許さないようになっています。
また、途中には暗闇になっている通路があり、昼間でも暗闇で敵を攻めることが可能なのです。
このような設計から加藤清正は、よほど心配性だったことが考えられますね。
熊本城の小天守の下には抜け道がある
どんな敵の攻撃も防げるように設定されてきた熊本城。万一、天守まで敵が攻めてきた時のために造られた物があります。
それは小天守の下に石門(出口)があり、人が通り抜け出来るほどの広さで頑丈な石で造られています。
加藤清正は、南の薩摩(島津氏)が最大の脅威と考えていたことから南側を重点的に防御をしていたことがわかります。