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高知城

高知城

高知城の基本情報

名所高知城
別名:鷹城
文化財史跡
区分
国の史跡
現存天守
住所〒780-0850
高知県高知市丸ノ内1-2-1
☎088-824-5701(高知城管理事務所)
築城1601年
築主山内一豊
入場料高知城内:一般420円※18歳未満は無料
高知公園:無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
本丸御殿入口


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高知城の歴史

1601年に山内一豊によって湿原が広がるデルタ地帯に築城されました。

しかし、この地には一豊が高知城を築城する以前から城が建っており、その城は14世紀頃、南北朝時代に築城されたものだと言われています。

大高坂氏によって築城され、大高坂松王丸が居城したと言われていますが1338年に後醍醐天皇の第7子である満良親王をむかえ、1341年に北朝方の細川氏・佐伯氏と戦って敗北後は特に記録が残っていないため、落城後に廃城になったものと考えられます。

また、1587年には長宗我部元親が秀吉の九州征伐後にこの地に城を築城しましたが、この土地は水はけが悪く、元親は浦戸城を築城し、そちらに移転したとも言われています。

しかし、1600年に起きた関ヶ原の戦い当時はこの辺りは長宗我部氏の所領となっていたようです。

関ヶ原の戦いで西軍に与していた元親の子・盛親は1601年に改易となり、代わって掛川城の山内一豊が土佐一国24万2000石で入封し、浦戸城に入城しました。

しかし、浦戸は城下町を開くのには狭く、一豊は現在の場所に新城を築城することに決めましたが、この地は浦戸湾に面していたため、水害が多く、山内氏の築城技術では困難が予想されました。

そのため、一豊は関ヶ原の戦いでの罪人として京都で蟄居処分となっていた旧織田秀信の家老・百々綱家の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、綱家は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持っており、築城技術に優れていたため、一豊は雇い入れた綱家を築城の総奉行とし、新城と城下町の整備を任せました。

綱家は本丸を造営するとともに城下町を整備するために鏡川などの治水工事も行いました。

1603年、本丸が完成し一豊は入城、築城当時は河中山城(こうちやまじょう)という名前でした。

しかし、元々心配されていた度重なる水害により、二代目藩主・忠義は高智山城と改名、後に省略されて、高知城と呼ばれるようになったようです。

1611年軟膏を極めた三ノ丸の工事が終了し、縄張りの全てが完成しましたが1727年に城下が大火に見舞われ、城の追手門を除くほとんどの建物が焼失しました。

1729年に深尾帯刀を普請奉行に任命し、高知城の再建が行われ、1749年には天守他、櫓・門などが完成しました。この時に建てられた天守は小さなものでしたが焼失前の外観をとどめて再建されました。

廃城令後は天守含む本丸周辺の建物と追手門を残して、解体されました。

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高知城の観光ポイント

現存天守は最初の築城時に比べると小ぶりなものになっていますが焼失前の外観をとどめており、独立式望楼型4重6階で最上階には高欄が設けられています。

天守台はなく本丸上に直に礎石を敷き御殿に隣接する形で建造されており、このような構えは慶長年間に築城された城にのみ見ることができるものだそうです。

高知城にはこの他にも黒鉄門をはじめとする門や矢狭間塀など多くの重要文化財があり、天守や懐徳館への入館は有料ですが、その他のものは無料で見ることができます。

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