二条城の見どころ観光ポイントまとめ
二の丸御殿は江戸時代の武家風書院造りの代表的な建物
二条城・二の丸御殿は、江戸時代の武家風書院造りの代表的な建物の一つです。車寄(くるまよせ)、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟からなり、東南から北西にかけて雁行形に立ち並んでいます。
建物面積3,300平方メートル、部屋数33、畳は800畳敷になります。
二の丸御殿車寄では豪華な彫刻がお出迎え
車寄(くるまよせ)は、唐門を通って直ぐ北側にあり、彫刻が豪華で見ごたえのある部分でもあります。入口上部の欄間彫刻は、表と裏でデザインが異なるので注意して見学したいところです。
表側には五羽の鸞鳥と松に牡丹、上部には雲、下部には笹が施され、裏側は松の大木が施されています。
正面三間、奥行四間、軒唐破風、入母屋屋根、屋根は檜皮葺、床は駕籠や輿、牛車で入って行けるよう四半敷になっています。
二の丸御殿大広間は大政奉還が発表された場所
二の丸御殿の中心的な建物にあたる大広間は、最も格式の高い場所とされ公式儀礼が行われます。遠侍の間の次に広い作りとなっており、一の間、二の間区切られ、一の間(上段の間、48畳)と二の間(44畳)は将軍と諸大名との対面所として使われ、特に一の間は美しく二重折上げ格天井で華麗な室内装飾が施されています。
大広間は1867年(慶応3年)10月に徳川幕府第15代将軍「徳川慶喜」が大政奉還を発表した有名な部屋でもあります。
他にも将軍に会う諸大名の控え室として、三の間・四の間があります。
一の間と四の間の間には帳台の間(武者隠し)があり、四の間には将軍上洛のときに武器をおさめた場所とも伝えられています。
鴬張り廊下は警報装置が鳴る
二の丸御殿の廊下は、歩くと鴬(うぐいす)が鳴くような音がすることから「鴬張りの廊下」と呼ばれています。夜間などの侵入者を音で知らせ、現在でいう警報装置の役割をしていました。
仕掛けは「目かすがい」という金具が、廊下の床板とそれを支える床下の根太の間に取り付けられ、その上を人が通過することで目かすがいが上下し音が鳴る仕組みです。
見どころ満載の本丸
二条城内の西側の奥の内堀に囲まれた16,800㎡の敷地が本丸になります。寛永3年(1626年)に3代将軍・家光が、五層の天守閣と4棟の御殿を建てています。その後、寛延3年(1750年)に落雷で天守閣が焼失、天明8年(1788年)には市中大火で殿舎も焼失しました。
今ある数寄屋造りの本丸御殿は、弘化4年(1847年)に建てられた旧桂宮邸の一部を京都御所から移築したもので、公家邸宅の遺構として国により重要文化財に指定されています。
また、本丸庭園は明治29年(1896年)に完成し、こちらは枯山水から改修を行い作られたものです。
庭全体に芝生が敷き詰められ、園路や月見台、燈籠や庭石が置かれた芝庭風築山式庭園にとなっています。
東南隅櫓内部は非常に興味深い構造
二条城の東南隅櫓は、後水尾天皇行幸の時期にあたる1602年(慶長7年)から1603年(慶長8年)にかけて建てられました。その後、1625年(寛永2年)から1626年(寛永3年)の間には改修工事が行われています。最終的に二条城には合計9棟の櫓が存在していました。
しかし、1788年(天明8年)に起きた大火により、ほぼ全てが焼失したため、今は西南隅櫓と一回り大きい作りの東南隅櫓を見ることしか出来ません。
それぞれ貴重な物で、重要文化財に指定されています。
東南隅櫓の作りですが入口は引戸になっており、1階の内部は板敷となっています。
出窓下の板部分は開けられるように作られ、石垣を登ってくる敵の兵を石で攻撃して防御する役割をしています。
東大手門は何度も姿を変えてきた
東大手門は過去の歴史の中で何度かその姿を変えてきました。建築当初は現在のような櫓門でしたが1626年、3代家光の頃に後水尾天皇の行幸があった際「2階に人がいるようなことがあってはならない」との配慮から1階建ての「薬医門」に建て替えられたと言います。
屋根は本瓦葺で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られ、門幅は13間あり重厚な門がまえで、国の重要文化財に指定されています。
唐門の細部には歴史の流れが見つかる
二条城の二の丸御殿の正門にあたる唐門は、後水尾天皇の行幸の時に作られました。唐門は切妻造の四脚門で唐破風の屋根は大変珍しい作りで、一見その名から中国との関係があるようにも感じますが日本独自のものだそうです。
極彩色の彫刻が素晴らしく透かし彫りとなり、表側は動物の正面を彫り、裏側には動物の背中側になるよう作られています。
2013年に修復工事が終わり、檜皮葺の張替え、漆の塗り替え、彫刻の再彩色など全てに手入れがされ、当時の様子を現在で目にすることができる貴重な時期です。
この唐門には菊の御紋が多数あり、これは二条城の所有者が変わった際に取り付けられるそうです。
二の丸庭園の過去は荒れ果てていた
二条城には3つの庭園があります。江戸時代からある二の丸庭園は、二条城が造られた時に概観に合わせて造られたと言われ、行幸の時に一部改修されています。
書院造りの庭園でもあるこの庭は神泉蓬莱の世界を表現し、御水尾天皇行幸の時に、行幸御殿、中宮御殿、長局を増築し、中庭的な庭園として改修されています。
池の中に御亭が建ち、大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から庭を眺められるよう庭を造り直しました。
その後、二条城に将軍不在の期間が229年間続き、その間は手入れがされなかったため、相当荒れたことが想像できます。
第15代将軍徳川慶喜が二条城に入城した頃には荒れ果て、庭園に樹木が生えていなかったといいます。
それから二条城の所管が何度も変り、宮内省が所管になってからは5回以上の改修が行われ、そのおかげで幕末の庭園とは全く異なった美しく整備された現在の庭園に生まれ変わりました。