広島城
広島城の基本情報
名所 | 広島城 別名:鯉城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 |
住所 | 〒730-0011 広島県広島市中区基町21-1 ☎082-221-7512(広島市文化財団広島城) |
築城 | 1589年 |
築主 | 毛利輝元 |
入場料 | 天守閣:一般370円 |
スタンプ 設置場所 | 天守閣1階ミュージアムショップ |
広島城の歴史
広島城は輪郭式平城で現存してはいませんが5重の天守がありました。広島城が築城されたこの地域は承久の乱以降、安芸国守護に命じられていた武田氏が治めていました。
戦国時代になると吉田郡山城を本拠とする毛利元就が安芸国守護の武田氏を滅ぼし、厳島の戦いで大内氏に対しても勝利を収めたことからそれ以降は毛利氏が治めてきました。
毛利氏が居城としていた吉田郡山城は尼子氏の大軍を破るほどの山城でした。
さらに、吉田郡山城のある場所は山陰と山陽とを結ぶ場所にあたり、戦国時代においては隣国に対していつでも睨みを聞かせることができる場所でした。
しかし、吉田郡山城は堅固な山城ではありましたが様々な面で不便なことが多く、元成の時代のように領地を争うことが少なくなっていた輝元の時代には不向きな城になっていました。
輝元の時代の城は防御重視、戦うための城であった戦国時代と比べると権力の象徴であり、城を中心として城下町を発展させ、商業や政治の中心となるシンボルとなっていきました。
この時代の毛利氏は中国地方の9ヶ国・112万石を治める有力な武将でした。
そこで不便な吉田郡山城から瀬戸内の水運も生かすことができ、城下町を広く整備することができる太田川下流のこの地に築城を決めたということです。
1589年、穂井田元清と二宮就辰を普請奉行として築城を開始、城の縄張りは秀吉の側近で築城の名手とうたわれた黒田如水によるものです。
1593年に石垣が完成し、1599年には全工事が終了し、この時に地名も広島と名付けられたと言われています。
完成当時、秀吉の大坂城に匹敵するほどの大規模な城であり、さらには実戦に備え、馬出も多数造られていましたが1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属し、徳川家康率いる東軍に敗戦した毛利輝元は広島城を去りました。
代わって賤ヶ岳の七本槍の一人で秀吉の死後、徳川家康の昵懇大名となっていた福島正則でした。
正則は広島城の改築工事を行い、外郭の整備や内堀、中堀、外堀も整備しました。
また、城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように変更し雲石街道を整備、城下町の整備を行いました。
しかし、この改築工事と城下町の整備があまりにも大規模であったため、それに怒った徳川家康に1609年謹慎を言い渡され、1619年に洪水によって破損した箇所の修復についても幕府から許可を得ていないという武家諸法度違反と見なされ城主であった福島氏は信濃国川中島へと転封になりました。
その後、広島城へは浅野氏が入城し、12代にわたって城主を務めました。
廃藩置県となり、藩政は終わりを告げましたが太平洋戦争の末期頃まで天守をはじめとして表御門や多聞櫓、太鼓櫓、中御門など江戸時代に建てられた建物が残っていました。
しかし、広島に投下された原子爆弾により、爆心地から約1km離れた場所に位置した広島城も爆風により天守が倒壊、その他の建物も多くが爆風により倒壊し焼失してしまいました。
広島城の観光ポイント
現在、広島城にある大天守は3代目のもので1958年に外観復元されたもので、中は博物官として利用されています。初代の天守を忠実に再現するという方針のもとに火災対策などを施し方法で再建されました。
また、瓦は堀に沈んでいたものを探し、新聞で募集するなどしたようです。
広島城趾には他にも櫓が復元されており、多聞櫓や太鼓櫓など内部が公開されています。
その他、崩れかけた石垣や刻印のある石垣もありますが、広島城には忘れてはいけない歴史を刻んでいるものも沢山あります。
それは城址内に点在する被曝した樹木です。
幹が激しく痛んでしまっているものや、近くの建物は倒壊し焼失してしまったものの耐え抜いて今に至るものなど、語る人少なくなってしまった歴史を今に伝えています。