吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡の基本情報
名所 | 吉野ヶ里遺跡 |
文化財史跡 区分 | 国の特別史跡 |
住所 | 〒842-0035 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843 ☎0952-55-9333(吉野ヶ里公園管理センター) |
築城 | 紀元前5世紀頃から? |
築主 | 不明 |
入場料 | 一般420円 小人(小中学生)80円 |
スタンプ 設置場所 | 吉野ヶ里歴史公園東口 |
吉野ヶ里遺跡の歴史
この遺跡は紀元前5世紀頃から紀元前3世紀頃のものと推定され、日本の歴史区分の中では縄文時代や弥生時代といった狩猟中心の生活から稲作が行われるようになった頃の集落の跡です。まだ、この地に集落ができていない頃から人々は周辺に住んでいたと考えられており、理由としては縄文時代前期頃に氷期が終わり、それに伴って海面が上昇、貝やカニなどの食料が豊富になったためと考えられています。
その後、集落が形成されはじめ、小さな村が集まり、大きな集落となっていきました。
集落が大きくなるにつれ、集落を防御するために周囲に堀を巡らすようになりました。
このような集落を環濠集落と呼びますが吉野ヶ里遺跡は非常に大規模な環濠集落として有名です。
集落を防御するためのものと思われる遺構が吉野ヶ里遺跡には数多く存在します。
一つは先にも書いたような堀です。
弥生時代後期には外堀と内堀の二重の堀がめぐらされ、特に外堀はV字に深く掘られていました。
その他、木柵や土塁など敵の侵入を防ぐための柵が設けられ、見張りのための物見櫓も集落の中に複数おかれていました。
住居は堀の内側にまとまって建てられており、主祭殿など祭祀にまつわる建物があったこともわかっています。
食料の保管も行われており授業で一度は耳にしたことがある高床式倉庫の後も吉野ヶ里遺跡から発見されました。
また、この遺跡では遺体がまとまった位置から発見され、おそらく一般の人の共同墓地であったのではないかと考えられています。
この集落が一番繁栄していたのは古墳時代に移行する前の紀元後3世紀頃であったようで、古墳時代が始まると集落はほぼ消滅し、この地には古墳が築かれました。
このような流れは他の環濠集落でも起こっており、吉野ヶ里遺跡内にある3基の古墳は集落が離散した後にこの地に作られたもののようです。
吉野ヶ里遺跡の観光ポイント
現在は吉野ヶ里歴史公園として整備され、物見櫓や竪穴式住居などが復元されています。高床式倉庫なども復元されており、遥か昔の集落の様子を垣間見ることができます。
遺跡からは銅剣やガラス製の管玉などの貴重な品が多く出土しており、魏志倭人伝に出てくる卑弥呼で有名な邪馬台国を思わせますが未だ邪馬台国がどこにあったのかはわかっていません。
公園内に復元されている建物は発掘調査の際に発見された場所に復元されているため、当時の人々が生活していた様子をより体感できるようになっています。
また、北墳丘墓は本物の遺構が発掘された状態で保存されており見学することができます。
吉野ヶ里遺跡は環濠集落の跡ですが周囲に堀を巡らす、或いは櫓をおくなど中世以降の城郭建築に共通するところが沢山あります。
古代日本の歴史に興味がなくても城郭の始まりを感じさせる吉野ヶ里遺跡は城好きを十分に楽しませてくれることでしょう。