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小谷城

小谷城

小谷城の基本情報

名所小谷城
文化財史跡
区分
国の史跡
日本五大山城
住所〒529-0313
滋賀県長浜市湖北町伊部小谷城跡
☎0749-78-8309(湖北町教育委員会事務局)
築城1516年
築主浅井亮政
入場料無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
小谷城戦国歴史資料館 
※火曜日の休館日は長浜市役所湖北支所


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小谷城の歴史

小谷城は標高495mほどの小谷山から南の尾根に築かれた城で日本五大山城の一つです。

この城は浅井家3代の城ですが、中でも一番有名なのは築城主浅井亮政の孫である浅井長政ではないでしょうか。

長政の誕生当時の浅井家は下克上で直接の主筋であった北近江の守護・京極氏を追い落とすも南近江の守護であった六角氏との戦いに敗れ、亮政が手に入れた領地を失い六角氏に臣従していました。

長政の父・久政はかろうじて北近江を維持していました。

六角氏は浅井との臣従関係をはっきりさせるために元服した長政に六角氏当主から一字とって賢政と名乗らせ、六角氏の家臣・平井定武の娘を正室にむかえさせるなどしました。

1559年、浅井家では当時の当主・久政に対して不満を抱く者が多く、元服した賢政を擁してクーデターを起こし、久政を強制的に隠居させると賢政に家督を相続させました。

賢政は六角氏との手切れを明確にするために名を長政と改め、さらに正室である平井定武の娘を六角氏に送り返しました。

この時、長政は六角氏と浅井の領地の境目に位置する肥田城主・高野備前守に調略を仕掛けており、高野備前守は浅井に寝返りました。

これに激怒した六角承禎は肥田城を水攻めにするも失敗し、肥田城救援に向かった長政と対峙します。

六角氏の軍勢2万5千に対し長政の軍勢は1万1千と数では圧倒的に不利な状況でしたが油断した六角軍を浅井軍が切り崩し、戦いは浅井の勝利で幕を閉じました。

1560年美濃の斎藤道三と膠着状態にあった織田信長が長政に同盟を提案し、長政は信長の妹であるお市の方を妻としました。

これにより信長は美濃攻略の足掛かりを手にしたとともに上洛経路も確保しました。

1568年足利義昭は朝倉氏に見切りをつけ、勢いのあった信長を頼って尾張へ向かうと信長は義昭を奉じて上洛を開始し、長政も上洛を掩護しました。

1570年、信長と同盟を結ぶ際に交わした朝倉への不戦の誓いを破り、信長が家康と共に朝倉の城を攻撃し始めると長政は以前より同盟関係にあった朝倉氏との関係を重視し、織田軍を攻撃しました。

これは隠居した久政の入れ知恵であるとも言われていますが真実はわかりません。

同年6月の姉川の戦いは小谷城から南に5kmほどの場所で行われました。

浅井長政公自刃の地ここまで近いと勝利した織田軍に城を攻められそうですが、小谷城が堅固な城であったことから信長が断念したということです。

しかし、戦いが続く中、浅井方の武将が織田へと次々に寝返っていきました。

信長は8月12日朝倉軍を壊滅的な状況に追い込むと越前へと敗走した朝倉氏を攻め滅ぼし、8月26日に帰陣、翌日には秀吉の軍勢が小谷城の京極丸を急襲して陥落させ、それぞれ本丸と小丸をまもる長政・久政親子を分断させることに成功しました。

同日、小丸は落城し久政は自害、本丸落城後9月1日に長政は本丸の赤尾屋敷で自刃し浅井氏は滅亡しました。

その後、浅井氏の旧領の一部を与えられた秀吉は琵琶湖に面した場所に長浜城を築城し、小谷城は廃城となりました。

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小谷城の観光ポイント

現在、建物は残っていませんが土塁や石垣、虎口などの遺構が残っています。

また、小谷城戦国歴史資料館では小谷城跡から出土した遺物の展示などが行われており、小谷城と浅井氏をより知ることができます。

予約することで小谷城をガイドに案内してもらうことができます。

小谷城は五大山城だけあってかなりの山道ですので登城の際には十分に気を付けてください。

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