姫路城をもっと楽しむ観光ポイント
姫路城は日本初の世界文化遺産
国宝・姫路城は、平成5年12月に奈良にある法隆寺と同時に日本で最初の世界文化遺産に認定されました。現在建っている姫路城の大天守は、慶長14年(1609年)に建築されたもので築城400年以上そのままの姿であり続けています。
別名「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城は、白鷺が羽を広げたように美しい建ち姿からそう呼ばれています。
この美しい白の城壁は白漆喰総塗籠造りで、5層7階の大天守に東、西、乾の小天守が渡櫓で連結されている連立式天守になっています。
強運を持つ姫路城
1346年に赤松貞範が築城したと言われている姫路城ですが、当時は現在の姫路城とは異なり、館があった程度のものでした。その後、羽柴秀吉が中国地方へ侵攻してくると姫路城の重要度は高まり、本格的に城へと拡張が始まりました。
1600年の関ヶ原の戦い後、池田輝政が52万石で姫路城主になります。徳川家康より本格的な改修が行われて現在の姫路城へと姿を変えて行きました。
江戸時代になると姫路藩に西国探題が置かれ、本多・榊原・酒井など徳川譜代の大名が姫路城の城主になっています。
1618年には西ノ丸が整備されることになり、ほぼ現在の姫路城の姿となりました。
明治に入り、取り壊しの危機が訪れますが陸軍大佐・中村重遠の助けにより、彦根城、名古屋城などと共に姫路城も国が保存する形になりました。
太平洋戦争では2度ほど、姫路は空襲を受けています。
その際、天守閣の最上階などに焼夷弾が落ちましたが不発だったことから、奇跡的に焼失を免れています。
築城から400年余り、現在の姫路城は1993年12月にユネスコ世界遺産にも登録されています。
西の丸は姫路城全体が眺められる
姫路城はどこから見ても美しく、その魅力の一つに連立式天守群があります。その全体を良く見ることが出来る場所がパンフレットなどの写真によく使われることのある「西の丸からの眺め」です。
晴れた日などは、青空に白塗りの愛媛城が良く映えてこれぞ日本の城!といえる写真が撮影できるスポットの一つです。
備前丸の広場から見上げる迫力の姫路城
姫路城の撮影スポットとして上げられるのが、天守閣の隣、備前丸の広場から見上げて撮る愛媛城です。こちらから見る姫路城はとても迫力があり素晴らしいの一言に限ります。
このような撮影スポットを意識しながら姫路城を回るのも一つの楽しみです。
姫路城の階段には蓋がある
姫路城内の2階に上がると武者走りと呼ばれる通路があります。この階の階段の上には、蓋(ふた)があり、締め切ることができる仕組みになっており、蓋は「開き戸タイプ」と「引き戸タイプ」の二種類があります。
2階の階段は開き戸タイプで、1階と3階は引き戸タイプになっています。
この蓋は下の階側から鍵をかける仕組みになっており、通常ですと上の階から鍵をかけるイメージですが、当時の考え方として上の階から異常の有無を確認しながら閉めていくと考えられます。
姫路城の大天守地下一階は珍しい造り
姫路城の地下1階部分は、他の城とは異なり「流し台」や「厠」が設置されている珍しい作りになっています。他の城ではこの部分を主に倉庫として使うケースが多いそうです。
また、姫路城の地下1階には台所櫓へ通じる扉もあり、臨戦時に活用する目的が明白であることが分かります。
姫路城の遺構・油壁と姥ヶ石
姫路城の戦国時代の遺構も見どころのひとつです。羽柴秀吉が城主だった頃の遺構のひとつが油壁(あぶらかべ)です。姫路城内にある壁は真っ白ですが、この油壁だけは茶色く古びた土壁のような作りとなっています。
材料は山土に豆砂利を加え、もち米の研ぎ汁やおかゆなどを練り合わした後に土を仮枠の中で叩き締めたものとなり、かなりの強度があります。
この工法は池田輝政時代よりも古い事がわかっており、秀吉時代のものではと推測されています。
もう一つは油壁の内側にある白い石です。
これは姥ヶ石(うばがいし)と呼ばれ、過去に大規模な改修工事が行われた際、姫路城周辺には石垣の石を調達できる場所が限られていたため、工事が進められずにいました。
そんな時に城下で餅を売って生活していた貧しい老婆が、城のためと自分が使っていた石臼(いしうす)を石垣の材料に使ってほしいと申し出たことから、秀吉は大変喜びし、早速石垣に組み込みました。
この話が知れ渡り、姫路だけでなく播磨国中からも石の寄付があり、おかげで工事が進み姫路城の石垣が完成しました。
秀吉は「この老婆のおかげだ」と感謝し、この石臼を姥ヶ石と名付けたのが由来になります。
姫路城の城壁の狭間の種類の意味
姫路城の城壁には様々な形の穴があります。これは敵陣を襲撃する際、穴の形に合わせてチーム編成し攻撃していたからです。
このチーム体制によって効率よく敵陣を攻撃する様子が想像できます。
城壁の穴から顔を突っ込みのぞいてみると低い位置の態勢になります。
これはその時代の人々の体形を表しているのかもしれません。
様々な角度から見ることで当時の戦略方法を想像したり、戦国兵の気分を味わえることができますね。
姫路城の考えられた防御策
姫路城の「いの門」「ろの門」と進んで行くと徐々に門の幅と背丈が低くなっていきます。これは敵に攻められた時、多くの敵が場内に攻めてこないために作られた防御の意味と、敵陣がもつ大きな武器が場内に入りにくくするためだと言われています。
実際の高さは170センチ弱で、最後の方になると幅は人一人が通るくらいの狭さとなるのです。
かなり考えられた防御策ではないでしょうか。
姫路城観光をさらに楽しくするアプリ
姫路城をさらに楽しむために便利なアプリがあります。「姫路城大発見」です。敷地内の「姫路城大発見アプリ」と書かれたマークがあるARマーカーサインに携帯などでかざします。
すると「しろまるひめ」のナビゲーターが出てきたり、往時の建物やナビゲーターによる説明などが分かりやすく見る事ができます。
現在ARポイントは16か所あります。※2018年現在