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長野県にある五稜郭(龍岡城跡)

意外と知られていない長野県龍岡城五稜郭

日本には2つの五稜郭が存在し、一つは北海道にある函館五稜郭で有名な観光地です。

あまり聞きなれないのですが、長野県佐久市にもう一つの龍岡城五稜郭があります。

こちらは大給松平家の松平乗謨により築城され、乗謨は西洋の築城技術に詳しくフランスのボーバン元師が築いた星形の堀をもつ稜堡式城郭を起用し築きました。

文久3年(1863年)に着工し、3年後の慶應2年(1866年)に竣工されています。

現在の城址内は小学校があり、北東500mの山中に「五稜郭展望台」がありますのでそこから五稜郭を一望することができます。

龍岡城跡には小学校が建つ

長野県佐久市にある龍岡城跡は廃藩後の1872年に城は取り壊され、堀と土塁建物の一部「お台所」が残されました。

現在は佐久市立田口小学校が建っており、お台所が残された理由は学校としての使用申請が認められ、そのおかげで現在も当時のままの姿が保てています。

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要塞というより藩主居館に近かった龍岡城

総面積は約2万75坪で函館の五稜郭に比べるとその規模は約半分になります。

内郭の中央には藩主宅と政庁があり、正門、通用門はそれぞれ東北、東南の凹面にあり、また非常門は西北と南南東の凹面に設けられていました。

それ以外に、藩士の長屋、火薬庫、太鼓楼、歴代藩主の祠堂や稲荷社がありました。

しかし、西洋の稜堡式の形状を取り入れているものの、全ての稜堡に置かれるはずの砲台は西南角に一基しかありませんでした。

また、水堀の幅は約7~9メートルで他の城と比べても狭く、裏山からは城郭が一望できてしまうなどセキュリティ面も薄く、要塞としては望ましくない構造なことが言えます。

長野県佐久市にある五稜郭に行こう

龍岡城跡五稜郭があるのは長野県東部の佐久市です。

JR龍岡城最寄駅はJR小梅線の龍岡城駅となり、JR小梅線はJR中央線の小淵沢駅から八ヶ岳山麓の高原を抜け小諸へ続きます。

その途中、日本一標高の高い野辺山駅を通過します。龍岡城駅周辺は住宅と畑が広がる無人駅です。

駅から約2キロ徒歩30分程歩くと龍岡城五稜郭に到着できます。

城の内部は西洋式の作りであるのに対し、入り口は日本式の虎口があり、外郭は慣れ親しんだもので作られています。

五稜郭であいの館で情報収集しよう

五稜郭であいの館大手門の前に資料館と休憩所を兼ねて建てられた「五稜郭であいの館」があり、建物は新しく綺麗です。

地元のボランティアの五稜郭保存会の方々が説明をしてくれたり、五稜郭の資料の展示や歴史を見て知ることができます。

開館時間は9:30~16:00まで、休館日は火曜日・年末年始です。

頭脳明晰で先見の明を持つ松平乗謨

松平乗謨は三河奥殿藩の第8代藩主、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主となり、奥殿藩大給松平家10代で最後の藩主です。

乗謨は幼いころからすぐれた頭脳の持ち主で、隠居した父にかわり乗謨は十三歳で家督を継いでいます。

大給恒その後、頭脳明晰な乗謨は幕府の若年寄に昇進し、さらに西洋の制度に関心を抱く将軍後見職の一橋慶喜の後援をうけ老中格へ昇ります。

時代の流れにより、陸軍総裁を兼任し陸軍のトップに立った乗謨は、慶喜の意向により、幕府軍をフランス式へと転換するためにフランス公使ロッシュと会見し、それを参考に幕政改革を行って行きました。

その一つが長野県にある西洋型城郭の龍岡城五稜郭になります。

明治維新後は名前を大給恒(おぎゅうゆずる)として、その後、新政府の左院に少議官として出仕し勲章制度の調査・創設を請け負うことになります。

日本の勲章制度は、大給恒により完成されました。

明治二十二年に貴族院が設置され、乗謨は貴族院議院となりました。

明治四十三年、七十二歳で死去しました。

危篤の際、明治天皇はこれまでの勲功から乗謨を正二位に叙し、勲一等旭日桐花大綬章を与ています。

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松平乗謨(大給恒)の銅像

長野県佐久市にある龍岡城五稜郭の案内板の近くに松平乗謨(大給恒)の銅像があります。

龍岡城を築城しただけでなく、日本赤十字社をつくり育てた人と記載されています。

松平乗謨(大給恒)は、佐野常民とともに日本赤十字社の基礎である博愛社の設立、育成に力を注ぎました。

佐野常民が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、松平乗謨(大給恒)は「日赤の母」と呼ばれています。

五稜郭公園は一年を通して楽しめる

龍岡城と桜佐久市歴史の里・臼田五稜郭周辺地区整備基本構想を基に平成22年3月30日に開園しました。

地域の活性化に一役買っており、公園内には、五稜郭の星型城郭をデザインした芝生広場、夏には水遊びが出来る遊水地があり、子供が遊べる遊具や健康遊具があります。

また、春時期には桜のお花見が楽しめる公園です。

稜堡式城郭として築城された龍岡城の歴史

三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨は、西洋の軍学に興味を持ち砲撃戦に対処するための築城法を学んでいました。

龍岡城そこで新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計し元治元年(1864年)3月に建設を開始しました。

総工費は4万両と言われており、慶応2年(1866年)12月には石垣と土塁が、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿が完成しました。

松平乗謨が老中格・陸軍総裁に就任し公務により忙殺してしまった後は、経済的・時間的余裕がなくなり、石垣工事は簡略化されてしまった結果、未完成部分が多くなりました。

廃藩後の1872年に城は解体され、堀も埋められてしまいましたが昭和初期に地元住民によって復元されました。

その後、城跡に残された御台所に1875年田野口村の尚友学校が移転しました。

それから現在の佐久市立田口小学校に至るまで城跡は学びの場所として存在しています。

1934年に「龍岡城跡」は国の史跡に指定されました。2017年4月6日には続日本100名城(129番)に選定されています。

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