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櫓が有名なお城ランキング

第1位:弘前城(青森県弘前市)


現存する12の天守閣に名を覇す弘前城は東北随一のお城です。弘前藩主津軽家の居城として栄えてきました。

現在は石垣修理中のため、天守閣は2015年に仮天守台に移されており、石垣工事は2023年まで続く予定です。

弘前城には天守閣と並び重要文化財となる櫓が3つあり、二ノ丸にある丑寅櫓(うしとら)は北東に、辰巳櫓(たつみ)は南東に、未申櫓(ひつじさる)南西にと、方角を表す十二支にちなんだ名前がつけられています。

この3つの櫓は外観の造りはほぼ同じで三重三階櫓となり、屋根は入母屋造りで銅版葺。

三重のうち、下二層は四間四方同面積(62.4㎡)で四角い形をしており、三層目だけは他の二層に比べて少し小さい造りになっています。

壁は防火や防弾からの攻撃に備えるため、天守閣と同様に白壁を用いられているのです。

この3つの櫓の違いは、窓の形や妻の構造などの細かい部分にあるようです。

櫓の造られた意味としては、城に敵を通さずに応戦するのが目的ですが、もう一つの理由は歴代藩主の物見櫓、観覧場所や休憩所の役割もあったようです。

素木のまま装飾もない素朴な造りが、弘前城の歴史を今に伝えています。

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第2位:熊本城(熊本県熊本市)


加藤清正により築城された熊本城ですが、幕末までは細川家の居城でした。

西南戦争の戦場となった場所でもあり、熊本城の櫓には「五階櫓」と呼ぶ特別な櫓の形が見られます。三重五階櫓のことで櫓でありながら他の城の天守に筆頭するほどの規模を持つのです。

以前は6基ありましたが現在は5基となり、中でも「三の天守」と呼ばれるほどの宇戸櫓は石垣の高さ20m・天守の高さ19mもあり重要文化財に指定され、一見天守閣と見間違えるほどの迫力です。

屋根にある鯱(しゃちほこ)は昭和2年に場内にあったものが取り付けられました。

飯田丸五階櫓は飯田丸の南西隅に位置し、平成17年に復元され、櫓の建つ場所が加藤清正の重臣「飯田覚兵衛」の預かる曲輪、「飯田丸」にあたることから名がついたようです。

この櫓の特徴は二段になる櫓台の石垣です。

平成28年には熊本地震で被害を受け、一本石垣と呼ばれる姿になりながらも櫓を勇敢に支えてきましたが、平成30年6月に石垣の解体が完了しています。

戌亥櫓は、西出丸北西隅(戌亥の方角)に建つ、木造二重三階の隅櫓。こちらは平成15年に総工費4億6千万円をかけ復元されています。

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第3位:名古屋城(愛知県名古屋市)


金の鯱ほこで知られる名古屋城は、織田信長の築いた那古野城の跡に慶長15年に徳川家康が義直の居城としました。

現在の天守閣は昭和34年の再建したもので、城内には重要文化財の隅櫓が3つ残ります。

名古屋空襲を免れた「西南隅櫓」「東南隅櫓」「西北隅櫓」です。残念なことに「東北隅櫓」は焼失しています。

隅櫓とは、城郭の4つの角に当たる箇所に築かれたお城の備えにあたります。

西南隅櫓ですが「未申(ひつじさる)櫓」の名もあります。

外観は二重ですが内部は三階建てとなり、三角形の屋根には千鳥破風(ちどりはふ)の特徴を持ち、敵が攻めてきたときに応戦する石落としが見られるのも特徴です。

濃尾地震で大きな被害を受け、大正時代には石垣ごと倒壊したこともありましたが、宮内庁が復旧工事を手掛け、規模や造りはほぼ復元され、その名残りは鬼瓦の菊紋にあります。

次に東南隅櫓ですが辰巳櫓の名も持ち合わせます。西南隅櫓と同じく、外観は二重で、内部は三階建てです。

こちらには尾張徳川家の居城であったかを記す、葵の家紋が残ります。

東南隅櫓には金の鯱ほこがありますが、明治43年に江戸城から移されたとの話が伝わります。

最後は西北隅櫓で戌亥(いぬい)櫓とも呼ばれます。

外観は三重で内部も三階建てとなる櫓。この形の櫓としては江戸時代より残るものの中では二番目に大きな建物です。

もとは清須城の小天守閣であったと伝わり、清須櫓としても有名です。

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第4位:彦根城(滋賀県彦根市)


琵琶湖八景にもあげられる彦根城は1622年に完成した井伊家の居城です。

国宝の天守閣をはじめ、重要文化財の3棟の櫓が残ります。

1棟目の佐和山多聞櫓は佐和口にあり、表門に行くには4つの入口(門)があって佐和口はそのうちの1つになります。

もともとは櫓の中央に櫓門がありましたが、明治元年に解体されており、櫓がこの佐和口の桝形を囲むようにして2度曲折する形で造られているのも良く見えます。

櫓の西棟が重要文化財となり、江戸時代から現存する部分で東棟は昭和の再建です。

井伊直弼が桜田門外の変で倒れ、ちょうど100年目にあたる昭和35年に復元(総工費3500万円)されたコンクリート造りの櫓で開国記念館になっています。

2棟目は大手門・表門どちらからでも辿り着く合流地点の天秤櫓です。

高い石垣の上に建てられて尾根を切り取った「掘りきり」から廊下橋が伸びる形をしており、ここを通らなければ中に入ることが出来ない造りです。

長浜城大手門を移築したと伝わる門が掛け橋の先にあり、その左右に櫓が建つ姿から天秤櫓の名を持ちます。

2階建ての櫓の形は左右微妙に違っており、棟の向きの違いやつけられている格子窓の数が違うなど、ちょっとした面白い工夫を持ち合わせています。

橋の上から眺める姿も見事ですが、橋の下に降りて見上げる櫓も見ごたえがあります。

3棟目は太鼓門櫓です。本丸の天守閣に一番近く建つ櫓となり、楼門には移築してきた証となる釘跡が残ります。

一説には彦根寺の楼門からの移築、もしくは佐和山城か長浜城の城門を移築されたと伝わるものです。

太鼓門櫓としては珍しく、門の南側に直角となる形で続櫓がつけられているのも特徴です。

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第5位:明石城(兵庫県明石市)


明石城は現在の兵庫県の明石駅前に築かれていた平山城です。

山陽道における西日本を抑える目的で江戸将軍2代目徳川秀忠の命により明石藩主小笠原忠政が築きました。

天守は造られずに本丸の4つの隅に「巽櫓・坤櫓・乾櫓・艮櫓」という3層の櫓が建てられたのが大きな特徴です。

現存するのは、南西部分の坤櫓、南東部分の巽櫓の2つだけとなり、どちらも国重要文化財に指定されます。

坤櫓はもっとも大きな規模の櫓で天守の代わりとして使用され、西を向いていることから西国の守っていたことが考えられます。

巽櫓は元は船上城にあった天守が移築されたものと言われ、南を向いて建っています。

明治時代に廃城となり、城の周辺は公園として整備されましたが2つの櫓は残され、補強工事が施されました。

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第6位:江戸城(東京都千代田区)


江戸城は徳川家康が入城をはたしたあと代々徳川家の居城となってきました。明治以降は歴代天皇陛下のお住まいとなり、皇居と呼ばれ二ノ丸にあります。

江戸城は「千代田城」との呼び名もあり、現在は天守閣跡をはじめとする城跡一帯は、東宮東御苑と呼ばれて一般開放されています。

今なお、江戸城の歴史を伝える建物があります。それは富士見多聞櫓です。

「多聞」とは、石垣に建つ長屋のような建物で中には敵に備えての武器を納めていました。

簡単にいえば武器倉庫で、ここから格子窓を開けて狙いを定めることが出来るようになっており、富士見多聞櫓は名高い「松の廊下」に近い場所にあります。

多聞櫓は15棟建てられましたが、今も姿を留めるのは富士見多聞櫓のみになります。

そしてもう一つ江戸城に残る最後の隅櫓が桜田巽櫓にあります。その形から「桜田二重櫓」の名も持ち合わせている。

本丸から見て東南(辰巳=巽)の方向に位置するのでこの名が付き、三ノ丸に位置する建物で隅櫓の役割は主に監視と敵からの防御を担っていました。

実戦向きに建てられた跡の狭間落としが今も残り、ここから石や熱湯を落とし敵を迎え打ちしたのが分かります。

城内に残る富士見櫓と伏見櫓と並んで江戸城の貴重な遺構として注目されています。

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第7位:大阪城(大阪府)


豊臣秀吉ゆかりの大阪城にある「多聞櫓」「千貫櫓」「煙硝櫓」の3つの櫓が、2019年の11月24日まで特別公開されています。

多聞櫓は1848年再建され、二の丸の入口に当たる大門を組み込み、東西に伸びる渡櫓と渡櫓の東端から南に向かってくの字に曲がる続櫓で成り立ち、西の丸に建つ乾櫓と並ぶ大阪城で最も古い建物です。

千貫櫓は1620年再建され、外観は二重櫓で大手口の攻防としていました。

大阪城の前身となった石山本願寺であった時代、この場には隅櫓があり、石山合戦の時にはここからの横矢で信長は大苦戦したと伝わります。

その際、信長は「櫓を落とせば千貫文与える」と言ったことから「千貫櫓」の名前がつきました。

二の丸の南側にも重要文化財の櫓があり、当初は一番から七番までありましたが現存するのは一番と六番です。

その中でも「一番櫓」は最も東側にあり、外観は二層二階です。

玉造口からくる敵を迎え討つ為の狭間・石落とし・窓も16つけられています。

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第8位:広島城(広島県広島市)


広島城は天正17年に毛利輝元により築かれた日本三大平城の一つ。「鯉城」の別名をもちます。

昭和20年の広島原爆によって広島城は全て焼失し、現在の天守閣は昭和33年に再建されたものです。

平成元年より始まった改修によって二ノ丸の「平櫓(ひらやぐら)」・「太鼓櫓(たいこやぐら)」・「多聞櫓(たもんやぐら)」・「表御門(おもてごもん)」が平成6年8月に復元されました。

3つの櫓は全て繋がっており、自由に行き来することができます。その長さは90mにも及びます。

それぞれ櫓はに役割があり、平櫓は今でいう警備で門の出入りを監視していました。

太鼓櫓は二重二階建の建物で二階に登城の合図を知らせる「時を知らせる太鼓」が置かれ、今も太鼓はありますが、見学しやすいように一階に移されています。

この二つの櫓をつなぐ役割をしていたのが「多聞櫓」です。長さは63mで復元された長さを見ただけでも大変長いものであったようです。

内部は全て見学できるようになっており、江戸時代の城郭を目の当たりに感じることができます。

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第9位:姫路城(兵庫県姫路市)


平成の大修理を終えて再び国宝の姫路城が姿を現しました。世界文化遺産にも認定されたその美しさは「白鷺城」の別名も持ちます。

場内に西の丸に残る櫓に化粧櫓があり、大阪城落城の時に救いだされた千姫(父・徳川秀忠、母・お江)が本田忠刻と再婚し、姫路に入られた時に築かれました。

輿(こし)入れに頂いた化粧料で造られたため、この名前があると伝わります。

櫓の隣には侍女のいる「西の丸長局(百間廊下)」が続き、千姫はここから朝夕男山に祀った天満宮を遥拝したと言われています。

塩櫓は珍しい名前ですが、「太鼓櫓」「折廻櫓」と共に重要文化財指定されており、2つの渡櫓が連続して建つ形で天守北側に建ち曲線が美しい櫓です。

中には井戸が掘られ、塩を備蓄していました。

太鼓櫓は折曲がり、二の丸からきた敵を備前丸へ遠さないように止める役割がありました。

明治になり陸軍によって三の丸の建物が取り壊された時、太鼓櫓の中にあった太鼓をこちらに移したことにより、櫓に「太鼓櫓」の名前がつきましたが、今は太鼓は無くなっています。

折廻櫓(おれまわりやぐら)は、櫓としては珍しい特徴も持ち合わせ、2階部分は書院造りで部屋の間延びを目隠しする目的の「蟻壁」が見られます。

さらに鉄砲狭間なども見られ、城の守りと住居の意味合いを掛け持ちした櫓です。

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第10位:福岡城(福岡県福岡市)


福岡城は黒田長正が1601年から7年かけて築城し、別名は舞鶴城とも呼ばれています。

重要文化財の「福岡城南多聞櫓」があり、別名を「武具櫓」「西平櫓」とも呼ばれ、平櫓の両端に隅櫓を置く形で両端の隅櫓は「南隅櫓」「北隅櫓」になります。

南隅櫓が重要文化財に指定されており、北隅櫓は昭和47年から昭和50年の間に解体復元されました。

間に建つ平櫓は切妻造りの二重二階建で長さは54mあり、防衛の為に造られていますが、石落としがあるのみです。

普通の多聞櫓と違い、内部が16の部屋に分かれており、敵が攻めて来たときには編んでおいた竹をほどいて弓の矢にし、それを結んでいた紐がわりの干しワラビを食料にしたと伝わります。

海に近い城だけあり、玄界灘や博多湾の監視を担う二層の潮見櫓もありますが、伝潮見櫓と書かれており、本当は時を知らせる「太鼓櫓」であったのではないかとの説が有力になったからです。

祈念櫓という変わった名で呼ばれる櫓が本丸東北隅に建ち、場所からして鬼門封じの祈念のために建立されました。

二層で屋根には鯱をおかれた姿で1860年の完成し、こちらも一時は大正寺の観音堂になっていましたが、昭和58年に現在の位置に戻されています。

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第11位:松山城(愛媛県松山市)


松山市内の中心に位置する標高132mの勝山の頂きには加藤嘉明によって築城されたのが松山城です。江戸時代には松平家代々の居城として栄え、その名残りが紋章「三つ葉葵」として残ります。

この松山城には重要文化財に指定された21棟の建造物があります。

櫓に関しては、野原櫓(のはらやぐら)・乾櫓(いぬいやぐら)がとくに有名です。

野原櫓は外観がまるで騎馬姿に見えるから騎馬櫓とも言われ、四国で一番古い櫓で城の裏門を守り、敵が本丸の東通路に向かうのを防いでいました。

国内では一つだけとなる望楼型の二重櫓(一階の天井の梁で二階を支える)は犬山城と同じ建築手法がみられ、物見櫓としての役割も持ち合わせていました。

乾櫓は松前城からの移築とも伝わり、野原櫓と同じく裏門を守る敵からの備えのため築かれたものです。

土塀にはその特徴が感じられる強固な壁の太鼓壁が残り、敵からの弾丸を封じるために壁の内部には小石や瓦などを詰めて厚くしてあります。

また、二重の隅櫓の出窓からも向かってきた敵を相手に闘う「石落とし」が残り、どれだけ強硬な城であったかを想像できます。

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第12位:津山城(岡山県津山市)


森忠政が築城した津山城は津山市のシンボル的な存在で日本三大平山城の1つに数えられています。13年の年月をかけて造られた津山城は、高い石垣が築かれ、数十もの櫓が建てられており、守りに徹した城だったと伝えられています。

現在は廃城となっていますが、2002年に築城400年記念行事の一環として本丸御殿の南西にあった「備中櫓」が、忠実に再建されています。

備中櫓とは全国的にも貴重な構造の櫓だと言われています。

櫓は本来、見張り台や倉庫としての役割で用いられるものですが、備中櫓の中は畳敷きで茶室があり、唐紙が用いられているといった御殿建築の櫓になります。

城主若しくは城主に近い女性が生活していた場所だったのではないかと考えられています。

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第13位:松本城(長野県松本市)


松本城は5層6階建の大天守閣と乾小天守が繋がる連結複合式の天守閣です。大天守と乾小天守をつなぐ役割を持つのが、渡櫓(わたりやぐら)と呼ばれ国宝に指定されています。

外観は2階建てですが、珍しく地下があり1階へ上がるための「がんぎ」と呼ばれる石の階段があり、2つの天守をつなぐ曲がった形のままの梁も見られます。

現在の内部には昭和の大修理で取り替えられた瓦や釘の展示と、松本城の代々の城主の家紋が残る鬼瓦が並んでいます。

国宝の櫓はあと2つあり、どちらも後に増設された櫓として築かれており、目的が違っています。

辰巳附櫓(たつみつけやぐら)は、天守閣に月見櫓を増設するための連結部にあたり、東西に三間南北四間の広さを持ち、天守に見られる花頭窓と水切が櫓にある特別なものです。

月見櫓は名前通りの月見場所として1633年に築かれており、徳川家光が上洛した帰りに長野の善光寺へ参詣をする際の宿泊所として選んだのが松本城です。そのために急遽「月見櫓」を増設したのです。

しかし、中山道で落石があり、家光が松本城へ立ち寄ることはありませんでした。

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第14位:大洲城(愛媛県大洲市)


大洲城は加藤家代々6万石の居城でした。天守閣は2004年に木造にて復元され、城内の4棟の隅櫓は全て重要文化財です。

台所櫓(だいどころやぐら)は、1859年の再建で二重二階櫓、城に残る一番大きな建物です。

本丸にあり、台所櫓と高欄櫓は渡櫓で天守につながります。

内部に土間を作り、煙だしのための格子窓があり、籠城時に兵のための食事を作りました。

高欄櫓(こうらんやぐら)は、1843年の再建で台所櫓と同じく渡櫓で天守につながっています。

二階の西と南には名前の由来となる「高欄」がつけられ、屋根は4つの櫓で唯一の唐破風です。一階には応戦のための石落としと格子窓が設けられています。

苧綿櫓(おわたやぐら)は、二の丸の東南隅にあり1843年の再建され、糸や布の原料となる苧(カラムシ)の貯蔵庫として使用していたため、この名が付きました。

外観は二重二階で一階には台形の形をした石落とし、二階には出窓が取り付けられ、昭和34年の解体修理の際に洪水から櫓を守るため石垣をかさ上げされました。

三の丸南隅櫓は明和3年に建立の大洲城で最も古い建物です。

台形の形をした石落としがつけられ、敵が石垣を登り攻めてこようとした時には、ここから石を落とし応戦したと言われています。

現在は加藤家の所有になります。

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第15位:二条城(京都府京都市)


二条城は1603年に徳川家康により築かれ、近年は世界文化遺産にも登録されています。

江戸時代には将軍の宿泊所、近代は皇室の離宮とされてきたのが今に残る国宝「二の丸御殿」です。

最初は4棟の隅櫓がありましたが、天明8年の大火でそのうちの2棟を失くし、天守は焼け落ちその後再建することはありませんでした。

残った東南隅櫓と西南隅櫓は共に重要文化財となり、どちらも外観は二重二階の櫓で屋根は、入母屋造りの本瓦葺き、慶長年間に造られ、寛永3年に改修されています。

2棟に大きな違いはありませんが、西南隅櫓の方が一回り小さくなり、櫓の西面の破風の1階が向唐破風になっていて西側と南側に石落としがあります。

東南隅櫓は1階の破風に千鳥破風に残し、内部は天井が大変高く造られており、層塔型櫓の特徴が見られます。

鉄砲倉と言われるだけあり、鴨居には釘が打たれ、火縄銃の火縄かけにした跡があります。

格子窓を矢狭間に利用し、出窓は石落としにと戦闘用としての櫓であったのを今に伝えてくれる建造物です。

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