難攻不落で有名なお城ランキング
第1位:熊本城(熊本県熊本市)
築城の名手である加藤清正が築いた熊本城は「難攻不落」の城として知られている。
実際にその難攻不落の名をとどろかせたのは幕末の西南戦争です。
明治10年に西郷隆盛が率いる薩摩軍が鹿児島から北上し、熊本城で明治政府の官軍と激突しました。
薩摩軍は官軍が籠城している熊本城に攻め入りますが、熊本城の高く反っている「武者がえし」と呼ばれる石垣に阻まれました。
また、本丸からの路は迷路のようになっている上に高石垣や櫓を設けられており、侵入者は逃げられず高い場所から撃ちとりやすい構造になっています。
西南戦争では50日を越える籠城戦が行われましたが、西郷軍は1人も侵入ができず難攻不落であることを証明することになりました。
後に西郷隆盛が「官軍ではなく清正公に負けた」とつぶやいた、という逸話も残されています。
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第2位:大阪城(大阪府)
豊臣秀吉が築城した大阪城(大坂城)は、天正年間に約3年半もの月日をかけて造られました。
何重もの堅牢な造りとなり、安土桃山時代に来日した外国人が「日本で最も難攻不落」と讃えたことが記録されています。
真田信繁が真田丸を築いて活躍をしたことでも知られている「大坂冬の陣」では、約20万もの徳川軍に囲まれながらも大阪城は落とされませんでした。
非常に堅牢な城であったことが伺えます。当時の大阪城は、現在の大阪城公園の約4倍もの広さを誇り、四重の堀に囲まれていました。
北側は淀川、東側と西側は惣構堀と呼ばれるお堀に囲まれ、さらに湿地帯が多かったことも難攻不落と呼ばれる理由のひとつでしょう。
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第3位:小田原城(神奈川県小田原市)
小田原市の象徴ともいえる小田原城は、北条氏が約100年に渡り治めていました。
北条氏政の時代、上杉謙信や武田謙信をも落とすことができなかった鉄壁の城としても知られています。
小田原城のもっとも大きな特徴は、惣構えと呼ばれる防御エリアです。
天守だけでなく城下町も城の範囲と捉えて堀と土塁によってぐるりと囲んでいる、いわば「城郭都市」で全長9キロメートルもありました。
当時、日本でもっとも大きな城郭とされ、豊臣秀吉軍の22万の兵力でも上手く攻め入ることができませんでした。
小田原城の総構えでは「障子掘」という畝(うね)が築かれており、畝は滑りやすい赤土なため、攻め入って堀に落ちた敵を撃ちやすい作りになっている。
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第4位:七尾城(石川県七尾市)
七尾城は北陸・能登半島の中央部分ある山全体を利用して築かれた巨大な山城です。
日本でも屈指の規模の山城で日本100名城にも選ばれています。
標高300メートルの場所に築かれ、七尾湾を一望できる景観の素晴らしさでも有名です。
七尾城は、室町時代に能登国守護であった畠山氏によって築城されました。
堅牢で難攻不落の山城としてその名が知られており、戦の名手であった上杉謙信をしても攻め落とすまでに1年以上かかったほどです。
城は七つの尾根にまたがっており、城を囲む石垣は何重にも巡らせています。
さらに本丸と長屋敷の間にある大堀切や1キロメートルに及ぶ総構え、曲輪などが現在も残され、七尾城が防御に優れた城であったことが伝わります。
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第5位:千早城(大阪府)
大阪府南河内郡にある千早城は、南北朝時代の武将として知られた楠木正成が築城した山城です。楠木七城のひとつで河内と大和国の境にあります。
背後には金剛山がそびえ、三方を千早川の峡谷、北谷川、井戸ノ谷、妙見谷という、200メートル以上の急峻な崖に囲まれており、まるで天然の要塞でした。
さらに城の周囲は20以上の曲輪で構成されており、難攻不落の城だったと言われています。
1333年には100万の鎌倉幕府軍を100日間にわたる籠城城で退け、鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった千早城の戦いが行われたと伝えられています。
現在の千早城跡には神社が建立されており、当時の遺構はほぼ残されていませんが、日本100名城に選ばれていることから多くの人が訪れています。
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第6位:上田城(長野県上田市)
上田城は戦国時代の武将・真田幸村(信繁)・信之の兄弟の父である真田昌幸によって築城されました。
現在は日本100名城に数えられ、好きな城アンケートでも上位にランクインされているお城です。
上田城は徳川軍からの攻撃を想定した造りとされており、城の南側は尼ケ淵と名付けられている断崖が天然の要塞の役割をしています。
北側と西側には人工的に掘られた矢出沢川が取り囲むように流れています。
さらに東側にも蛭沢川、そして湿地帯が広がっているこから難攻不落の城と呼ばれています。
城自体も本丸が南側に配置され、本丸が北側、東側、西側を二の丸に囲まれ、さらに三の丸が大手門の間にあるという梯郭式と呼ばれる、東側から攻撃されることを見越した配置になっている。
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第7位:姫路城(兵庫県姫路市)
城壁の美しさから「白鷺城」という別名でも知られる姫路市の象徴である姫路城は、日本で初めて世界遺産にも指定された城です。
名将として名高い黒田官兵衛が城主となったことでも有名です。
姫路城は美しいばかりでなく、築城以来一度も戦火に遭ったことがない「不戦勝」の城でもあります。
まず、北側、東側、西側は山がそびえ、南側は海に面しており、城は天守を囲むように塀や土塁、濠が左回りに配置されています。
内曲輪に入ってからの道はらせん状になり、路は狭くなったり広くなったりとまるで迷路のような縄張りで、天守は見えているのになかなか近づけません。
そして、袋小路に入り込ませ撃ちとれるように複雑なつくりとなっています。
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第8位:月山富田城(島根県安来市)
月山富田城は、現在の島根県安来市広瀬町にあった山城で標高197mの月山に造られました。
戦国時代に中国地方の守護大名となった尼子氏が、6代170年にわたって統治をした拠点となります。
日本100名城のひとつに数えられており、現在は城跡が国の史跡になっています。
日本で最大の規模を誇り、難攻不落の山城と呼ばれ、その様子から天空の城とも呼ばれました。
月山富田城は、天然の地形を巧みに取り入れた造りで月山の断崖絶壁が砦となり、飯梨川が濠となっています。
山頂部分には、本丸・二の丸・三の丸が縦に連なっている。
さらに尾根部分には山中御殿という曲輪が設けられ、攻撃を受けても何重もの防御で敵の侵入を防ぐ造りになっています。
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第9位:松山城(愛媛県松山市)
松山市を一望する標高約130メートルの高台にそびえる松山城は、日本三大平山城のひとつに数えられています。
17世紀に七本槍の1人として知られている加藤嘉明によって築城されました。
松山城は防御に長けた難攻不落の城とも言われており、現存12天守の中で唯一の連立式天守を持つ城としても有名です。
山頂部分にそびえる天守は、大天守・小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓で繋がる非常に複雑な造りとなり、天守の防御力を高めています。
本丸と二の丸の間には登石垣がそびえ、さらに縄張りには何重もの石垣や複雑に折れ曲がった迷路のような造りになっている等、進入した敵を防ぐための工夫が随所に張り巡らされています。
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第10位:春日山城(新潟県上越市)
戦国時代の武将・上杉謙信の居城としても知られる春日山城は、現在の新潟県上越市にあります。
600年ほど前の南北朝時代に築城され、1500年頃に長尾為景によって整備されたといわれています。
日本100名城にも選ばれ、そして難攻不落の山城として知られています。
標高180メートルの鉢ヶ峯の山頂に本丸を構え、二の丸・三の丸そして屋敷群が築かれていました。
石垣がなく、自然の地形を利用した土塁や空堀があり、敵の侵入がしたらわざと空堀に誘導するような仕掛けも工夫されていました。
山の裾野にある総構えには土塁と塀が張り巡らされていていました。
廃城になって400年以上経過していますが、現在では空堀や土塁、曲輪跡など当時の名残りが残っています。
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第11位:吉田郡山城(広島県安芸高田市)
吉田郡山城は、現在の広島県安芸高田市吉田町にあった山城で中国地方最大の規模を誇っていたとされています。
中国地方の武将として名を馳せた毛利元就の本城として居を構えていたことでも有名です。
少数の兵と住民で籠城し、約3倍もの尼子晴久軍から守り抜いたという1504年の郡山合戦の舞台としても知られています。
吉田郡山城は標高402メートルの郡山に築かれており、南側には可愛川と多治比川が合流していて山頂からは吉田盆地を見渡すことができます。
山頂からは6つの方角に尾根が伸び、それぞれ曲輪群が設けられていました。
曲輪は大小約270ほどあり、すべて合わせると約7万平方メートルもの広さがあったとされています。
石塁も築かれており、現在もその跡を見ることができます。
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第12位:江戸城(東京都千代田区)
現在の皇居となっている江戸城は徳川家康が1603年に征夷大将軍となった後、江戸の地に幕府を開く際に全国各地の大名に普請をさせたものです。
防御に優れた強固な城としても知られています。
堀は非常に広く深さもあり、石垣は高く詰まれ、枡形と呼ばれる防御陣地がおかれていました。
さらに城の中の道は折れ曲がっており、弓矢・鉄砲を用いることができず、忍者の監視所が設けらるなど外部からの攻撃に万全の防御態勢が敷かれていました。
現在は焼失しましたが、徳川家康の時代の江戸城は大天守と小天守を多聞櫓で繋げた天守曲輪の天守であったことが近年の調査で分かってきました。
天守曲輪を設けることで、たとえ本丸が落とされても戦うことが可能で防御力をさらに高めていたのです。
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