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武田信玄にゆかりのある城

「甲斐の虎」の異名をもつ武田信玄は5度に渡り「越後の龍」こと今川義元と「川中島の合戦」をしたことでも有名な武将です。

躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、甲斐源氏武田氏の本拠として武田信虎(信玄の父)・信玄・勝頼(信玄の息子)3代60年に渡る居城となった城です。

1519年に石和(いさわ)から移ってきた信虎が、足利義満の「花の御所」を参考にした館を構えたことから「武田氏館跡」とも呼ばれます。

信虎の時代、駿河今川家の福島正成が攻めた時、家族を裏山に続く「要害山城」に避難させたことがありました。

信玄はこの時、1521年11月3日に誕生しています。幼名は、太郎、勝千代と名付けられました。

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深志城※松本城(長野県松本市)

深志城(ふかしじょう)は小笠原氏の建てた林城の支城です。

武田氏は信濃支配の拠点として深志城を攻め落としました。

1550年に城は大改修され、地下も設けられています。

この時から武田家滅亡までの30年間、武田家の家臣が城主をつとめています。

現在は国宝松本城として注目を浴びている城です。

海津城※松代城(長野県長野市)

千曲川を天然の要害に取り入れた海津城は、この地の土豪・清野氏の館でした。

清野清寿軒は葛尾城の村上義清についていましたが、1550年に真田幸隆に頼んで武田氏に降伏したのです。

武田信玄は上杉謙信に備えて、山本勘助に海津城を改築させて城主に高坂昌信を置きました。

1561年に起こった4度目の「川中島の合戦」で謙信は海津城西の妻女山に陣を構え、信玄は茶臼山に陣を置き、山本勘助の考案した「きつつき戦法」で奇襲をかけますが交わされてしまい八幡原にある武田軍の本位と大合戦となったのです。

しかし決着はつかず、その後も武田方の川中島地方の拠点になっていました。

武田氏が滅亡すると森長可の領地になり、上杉家が会津へ転封されるまでは上杉家の支配下にあり、上杉が去ったあとは真田氏が入り「松代城」と名を変えています。

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高遠城(長野県伊那市)

高遠城(たかとおじょう)は諏訪氏一門の高遠頼継の居城です。

1547年に武田氏に奪われた後、城の改修がされて武田氏の伊那地方支配の拠点になりました。

城主に武田信玄の息子・仁科信盛が置かれた1582年、信長による武田攻めで「高遠城の戦い」が起こります。

織田信忠3万の大軍に仁科信盛にはたった3000の兵でした。さらに織田信忠の婚約者となっていた妹の松姫を預かっていたのです。

信盛は松姫とその娘・督姫に、わずかな住所をつけて甲府へ送ったと伝わります。

戦の行方は織田方についていた家康も浜松を出て駿府まで来ており、さらに明智光秀が加って織田方はさらなる大軍を引き連れて向かいます。

武田勢も勝頼が1万5千の兵で向かいますが支城は落とされ、離脱するものも増えて勝ち目は見えていました。

最後は城門を突破され、城主・仁科信盛は26歳で自刃。

織田信忠は甲府も占領し、勝頼は残る200ほどの兵と天目山を目指しますが捕らえられ、武田氏は滅亡したのです。

野田城(愛知県新城市)

野田城は1505年に駿河今川氏の菅沼定則が入城していましたが、今川義元亡き後の菅沼氏は徳川配下になりました。

武田信玄最後の合戦「野田城の戦い」でも知られています。

三方原合戦で徳川方から勝利した武田信玄は、野田城を包囲。

この地で1573年、武田勢と徳川勢の戦いが繰り広げられたのです。

武田勢3万の兵に対して野田城主・菅沼定盈は500の兵。

力で勝てる戦でしたが、信玄は甲斐の金山掘りを呼び寄せて地下道を掘り、城への水を断って落城させました。

徳川家康は次に信玄が狙うのは、吉田城や岡崎城と危機を感じましたが、1573年4月12日に信玄は体調悪化のために甲斐へ引き返す途中、信濃の駒場で生涯を終えました。

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戸石城(長野県上田市)

戸石城は村上義清が治める葛尾城の支城です。

1550年に武田信玄が攻めいりますが、村上義清の駆け引きによって武田勢が総崩れとなって大敗した「戸石崩れ」の舞台として知られています。

翌年、武田氏の家臣・真田幸隆の策によって城は落とされ、その後は真田氏の城になりました。

小田原城(神奈川県小田原市)

小田原城は、相模の豪族・土肥氏一族の小早川遠平の館でした。

戦国の世になると上杉禅秀の乱で大森憲頼が入りますが北条早雲により奪われ、その後は北条氏の本拠地になっています。

難攻不落と呼ばれるのは、今川義元や武田信玄が落とせなかったとされているからです。

武田信玄は無理な戦いをして城攻めは行わず、北条氏康を挑発して城外におびき寄せる策をとりました。

小田原城下に火を放って誘い出そうとしますが、この作戦は読まれて氏康は城に籠ったきり一向に出てきませんでした。

諦めた信玄は4日目にして甲斐へと引き上げ、その後は氏康と同盟を結び、北条方から攻められることはありませんでした。

その後、1590年に豊臣秀吉による「小田原攻め」で20万という大軍によって包囲され、北条氏は降伏しています。

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