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加藤清正にゆかりのある城

加藤清正は1562年肥後に生まれた安土~江戸時代初期の武将です。幼名は「虎ノ介」と呼ばれ、今では「清正公(せいしょうこう)さん」と親しまれています。

熊本城(熊本県熊本市)

「日本三名城」の一つで加藤清正によって築城されました。

清正は天正10年の「山崎の合戦」・翌年の「賤ヶ岳の合戦」で手柄をたて3000石の所領を得ました。

次いで天正14年の豊臣秀吉の九州平定に加わり、肥後の佐々成政を倒したことから肥後の北半分を秀吉から与えられています。

秀吉亡き後に起こった「関ヶ原の合戦」の際では東軍・徳川家康に味方。

九州で最大の力を持っていた島津氏に対抗するため、家康は加藤清正に肥後全域を任せて慶長11年に熊本城が完成しました。

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名護屋城(佐賀県唐津市)

天正15年豊臣秀吉は九州を平定し、続いて小田原の北条氏を倒して天下統一を果たした後には世界に目を向けました。

天正19年8月には来春の「唐入り」を全国に告げ、そのための前線基地とする名護屋城を築きました。

秀吉がこの地を選んだ理由として、地元「那古野(なこや)」と同じ読みで山の名前が「勝男山」ということから縁起をかついだとされています。

築城には加藤清正、黒田長政、小西行長らが携わりました。8ヶ月後の1592年3月に完成しています。

5重の天守や御殿、陣屋は120もあったと伝わり、城下町も造られ最盛期の人口は10万人にもなりました。

江戸城(東京都千代田区)

江戸時代には徳川家の居城となり、現在は一部が皇居となります。

徳川家康が外様大名に命じ、江戸城を築かせましたが、乾櫓(いぬいやぐら)の石垣を担当したのが加藤清正でした。

「清正公流石垣」と呼ばれる特徴がみられ、これは熊本城・名古屋城にも見られます。

石垣の下部は勾配が緩く、上部にいくほど急勾配になる「扇の勾配」といわれ、別名は「武者返し」とも呼ばれます。

清正による江戸城石垣工事では面白い話が残されています。

江戸城の建つ場所は江戸湾を埋め立てた湿地帯だったため、石垣を築くのには無理がありました。

そこで基礎工事には周辺に生えていた萱などを大量に集めて干し、沼地に放り込んだのです。

その上には土をかけて枯れ草をしき、ふわふわの遊び場として解放しました。

集まってきた子ども達や親までもが喜んでその上で遊びだし、そうこうするうち踏み固められ固まった場所に石垣を築いたと言われています。

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名古屋城(愛知県名古屋市)

もともとこの地には織田信長の那古屋城がありましたが、清洲に移したために廃城になっていました。

徳川家康の世になり、慶長14年尾張藩主・徳川義直の居城として名古野城を築かせたのです。家康は外様大名20家に命を下しました。

築城の名主・加藤清正は天主台の石垣を担当し、肥後より2万人を連れ、わずか3ヶ月で完成させています。

この時の「清正の石引き」のエピソードは、清正の秀吉を慕う思いとして語り伝えられており、他にも城内には「清正石」や「黄金水」の話等が残されています。

蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)

1597年に「慶長の役」で豊臣秀吉から命を受けた加藤清正が、韓国蔚山(うるさんわじょう・いさんじょう)に建てた城です。わずか40日で完成されたと伝わります。

1597年12月22日、明と朝鮮連合軍6万の兵により城は包囲されました。

加藤清正と浅野幸長は救援にやってきましたが、当時まだ城は未完成だったのです。

兵糧もなく大変な危機に陥っていましたが、10日後に毛利秀元、黒田長政らの援軍が到着し、連合軍を大破しました。

1598年9月に再び攻撃され、撃退しましたが運悪く秀吉が亡くなり、日本に帰ることになり11月には廃城となっています。

二条城(京都府)

二条城は関ヶ原の戦い後、徳川家康が将軍の宿泊所として築いた城です。

豊臣秀吉亡き後に加藤清正の機転を利かした「二条城の会見」が行われた場所でもあります。

秀吉の死後、豊臣の武将は2つに分裂し、家康が勝利した関ヶ原の戦いでは加藤清正は徳川家康(東軍)についたのです。

1611年3月に家康が豊臣秀頼に二条城へ来るように命じ、これには秀頼の母・淀君も大反対しましたが、清正が説得して秀頼と共に二条城へ向かいました。

これを「二条城の会見」と呼び、家康による豊臣秀頼の腹を探るための会見だったのですが、清正の機転で豊臣家の危機は救われたのです。

「やっと大恩を返すことが出来た」と清正は男泣きし、後に肥後へ向かいますが途中で亡くなっています。50歳でした。

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鳥取城(鳥取県鳥取市)

鳥取城は山中国豊の城でしたが二度に渡り「太閤の鳥取城攻め」を受けたことで知られています。

織田信長の命を受けた豊臣秀吉は、1580年(天正8年)「第一次鳥取城攻め」が行われ、壮絶な兵糧攻めを受けながらも3ヶ月後に山名豊国は単独で降伏し、豊臣方に寝返るのです。

残された家臣らは城主を追放し、新たに吉川経家(毛利方)を迎えました。

秀吉も前回の鳥取城攻めを踏まえ、2度目の兵糧攻めを行うために兵糧米を含む米全てを高値で買い占めました。

そして迎えた1581年の「第二次鳥取城攻め」では、前回と同じく3ヶ月(100日)は持ちこたえましたが城内は餓鬼地獄となっていたのです。

この兵糧攻めには加藤清正も参戦しており、蜂須賀小六と共に功績をあげています。

備中冠山城 (岡山県岡山市)

備中冠山城 (びちゅうかんむりやまじょう)は、標高40mの山に建つ「境目七城」の一つとして堅固な城でした。

「備中高松城攻め」の前哨戦、「冠山城の戦い」があった場所で1582年4月17日に冠山城は、織田勢2万、宇喜多勢1万により包囲されました。

しかし、宇喜多勢8000で攻めるも失敗に終わり、4月25日には城内からの出火により、林重真は南大手門の櫓にて自刃(享年51歳)。

この時に一番乗りを果たしたのが加藤清正で21歳でした。

息子・林宗重は城を脱出し、備中高松城へ逃げ延びるも、後に秀吉の「水攻め」で落城し、その後は小早川隆景に使えましたが九州攻めで討ち死しています。

宇土城(熊本県宇土市)

宇土城は三層の天守を持ち、キリシタン大名で知られる小西行長の居城でした。

1600年の「関ヶ原の戦い」で敗れた西軍・小西行長の領土を東軍の徳川家康についた加藤清正が受け入れました。

清正は肥後一国54万石を手にし、隠居所とするために宇土城を改築しましたが、「二条城の会見」の後に肥後へ帰る途中に亡くなりました。

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