今川義元にゆかりのある城
今川義元は1519年今川氏親の五男として生まれた、今川家第9代目にあたります。
戦国時代の武将で桶狭間の戦いで織田信長に敗れました。
駿府館(静岡県静岡市)
今川氏は足利家の一門で初代の今川範国が駿河国守護に任じられたのが、駿河今川氏の始まりです。駿府館(今川館)は1399年、駿河今川家の三代目・今川泰範によって構築されました。
城というよりは館といった造りで城下町を通り、碁盤の目のよう守りもありませんでした。
それは今川氏の勢力が強く、まさか敵に攻めこまれることはないといった過信もあったようです。
8代目氏輝が亡くなり起こった家督争い、「花倉の乱」で勝利した義元が9代目になり、今川家は全盛期を迎えます。
花倉城(静岡県藤枝市)
花倉城は297mの山に位置し、別名を花梨城とも呼ばれます。1353年に今川範氏により築城。泰範・範政と3代にわたる居城でした。1536年今川家の家督争い「花倉の乱」の決戦場です。
今川家8代目氏輝は4歳で仏門に入った弟・栴岳承芳(せんがくしょうほう・今川義元)を京都から駿河へ呼び寄せますが急死。
驚くことにもう一人の兄・彦五郎も同日に亡くなってしまうのです。
そこで残今川の家臣らから、後を継ぐように頼まれた栴岳承探は足利義晴に許しを請い「義元」と名乗って家督を継ぐことになります。
しかし、家臣の福島氏からの反対があり、家督争いが始まってしまいます。これを「花倉の乱」と呼びます。
福島氏は義元の異母兄・玄広恵探をあげて義元に対抗します。義元は伊豆や小田原を支配する北条氏からの支援を受け、花倉城を攻めました。
味方についていたもの達も順に離れて行き、勝ち目がない戦だとわかった玄広恵探は、とうとう岡左京進親綱に攻められ逃亡。
最後は普門寺にて自刃。花倉の乱で勝利した義元は晴れて今川家第9代目となったのです。
懸川城 ※掛川城(静岡県掛川市)
懸川城(かけがわじょう)は、今川義忠が重臣・朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)に命じ築城され、代々朝比奈氏の居城でした。1512年、今川氏の勢力拡大にと同じくして、龍頭山に現在の掛川城が造られました。
今川家は義元の時代に全盛期を迎えますが、1560年には「桶狭間の合戦」にて義元が無念の死を遂げると今川家は大混乱に陥ります。
義元の後を氏真が継ぐも離反するものが現れはじめ、そのなかには松平元康(徳川家康)の名もありました。
今川氏真は武田信玄に攻められると朝比奈氏の居城・掛川城に逃げ込みます。
朝比奈泰朝が最後まで氏真を支えた応戦は半年に及びましたが、元康までもが敵に加わり、最後は和議を結んで掛川城は開城されました。
岡崎城(愛知県岡崎市)
岡崎城は龍頭山に西郷稠頼が築城し、1531年は松平清康(家康の祖父)が現在の地に移しました。別名を龍城。1542年12月26日に松平元康(徳川家康)が誕生しますが、まだ幼い6歳で織田方の人質となるのです。
1549年には元康の運命を変える事件が起こりました。
城主・松平広忠が謀反により家臣に殺され、城が今川家の手中となったのです。よって元康は(8歳)、今川義元の人質となりました。
しかし、1560年に義元が「桶狭間の合戦」で倒されると今川方を離れ、岡崎城を奪還しました。元康19歳の時でした。
沓掛城(愛知県豊明市)
沓掛城(くつかけじょう)は近藤三郎左衛門宗光により築城され、代々近藤氏の居城でした。9代目・春景は織田信秀に従うも信長の世になり、鳴海城の山口氏と共に今川方に寝返るのです。
1560年5月18日「桶狭間の合戦」前日、沓掛城は尾張へ向かう「今川義元が最後に宿泊した城」です。
しかし、翌5月19日に沓掛城を出発した義元は、桶狭間にて信長に討たれました。
義元の本陣を信長に教えた「梁田政綱」による手柄でした。この功績によって梁田政綱は沓掛城に入り、息子・太郎、信長の弟・信照らが居城します。
最後の城主となった川口久助は関ヶ原の戦いで西軍につき敗れたため、沓掛城には伊達政宗が入城しています。
大高城(愛知県名古屋市)
大高城は織田方の水野氏の居城でしたが、織田信秀亡くなって信長が後を継ぐと今川方につきます。これを見過ごすことなく信長は、城近くに「丸根砦・鷲巣砦」を造り対抗しました。
1599年、今川義元より大高城の守りに入るよう命を受けた朝比奈輝勝が向かいました。
さらに翌年には鵜殿長照が守りに入り、その年の5月18日の夜、松平元康が兵糧を届けています。
しかし、翌日の5月19日に主君の今川義元が桶狭間の戦いで信長に倒されると元康は城から引き下がり、岡崎城へ戻って再び織田方の城となったのです。
鳴海城(愛知県名古屋市)
鳴海城は室町時代に足利の配下にあった安原宗範が築城しました。戦国の世には織田信秀の方・山口教継の城でしたが、信秀が亡くなり信長が後を継ぐと山口氏は対抗する今川氏に寝返ったのです。
信長という人柄をあまり好んではいなかったのか、信長に「先はない」と考えたのかもしれません。
1533年、信長に800の兵で鳴海城は攻められますが、何とか持ち堪えています。
義元から見れば、山口教継・教吉親子は、元は織田方に味方をしていた人物です。
再び信長に攻められれば、次は自分が裏切られるかもしれないと考えた義元は2人に切腹を命じ、代わって入城したのが今川家譜代の岡部元信でした。
1599年、信長は鳴海城の周辺に3つの砦(丹下砦・善照寺砦・中嶋砦)を造ります。
今川方のこれ以上の勢力拡大を阻むためでした。他にも信長は今川に寝返った大高城に対しても2つの砦を造っています。
吉田城(愛知県豊橋市)
吉田城は今川氏親の命で牧野成時が築城。その目的は三河の松平長親(家康の高祖父)を警戒するためです。元「今橋城」と呼ばれていた城は心配した通り1529年に松平清康(家康の祖父)が攻略し、三河の地を支配します。
後の世になり、今橋城を攻め勝利した今川義元はここを東三河の拠点とし、今橋から「吉田」に改称。
しかし、義元が「桶狭間の戦い」で討ち死にするとこれを機に松平元康が吉田城を落としました。