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直江兼続にゆかりのある城

直江兼続は1560年に樋口兼豊の長男で越後に生まれ、幼名は与六と呼ばれ、上杉景勝を支えた武将として有名です。

米沢城(山形県米沢市)

米沢城は戦国時代には伊達晴宗の居城でした。孫に当たる伊達政宗が岩出山へ転封されると代わって入った蒲生氏郷が会津・米沢を支配します。

1598年に上杉景勝が会津・米沢に移されると米沢城は、景勝の右腕・直江兼続が城主となっています。

関ヶ原の戦い後、上杉家は西軍方であったことから敗れ、米沢30万石として移封となっています。しかし、上杉家は全ての家臣を見捨てることはなく米沢に連れてきます。

1608年に米沢城は大改修され、城下に収まり切らなかった下級家臣のために侍町「原方」を形成した珍しい姿が残されています。

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春日山城(新潟県上越市)

春日山城は上杉謙信の居城。上杉景勝も会津へ移るまではここが居城でした。謙信亡き後に「御館の乱」が起こったことでも知られます。

1570年に上杉謙信と北条氏康が和議を結びます。

氏康の七男・氏秀を人質として迎えると謙信は大変気に入り「上杉景虎」の名を与えました。

1576年に越中を平定した謙信は続く「手取り川の合戦」で、織田・柴田連合軍をわずかな兵で敗り大勝利を治めています。

関東へも駒を進める準備のさなか、謙信は1578年3月に脳卒中で倒れて49歳で亡くなりました。

謙信亡き後には上杉景虎と上杉景勝による家督争いが起こり、これを「御館の乱」と呼んでいます。

上杉景虎は御館に立て籠り、景勝は春日山本丸を陣取り、その期間は1年間といわれています。

景虎は上杉景信や北条高広らを味方にし、さらに北条・武田の援軍がありました。

春日山に陣取った景勝には謙信が残した約3万両近くの貯えがあり、武田勝頼に1万両を送り寝返らせることに成功します。

そして樋口兼続(直江兼続)は、上田衆を率いて功績を挙げた結果「御館の乱」は景勝の勝利に終わったのです。

会津若松城(福島県会津若松市)

会津若松城は関ヶ原の戦い前後の約3年間、上杉家の居城でした。その頃、直江兼続は米沢城6万石を領します。

1598年、豊臣秀吉は関東の徳川家康や東北の伊達政宗の牽制役に、上杉景勝を越後から会津へ国替をしました。

直江兼続は、会津若松城の大手門近くに屋敷を構えられ、領内の経営を任されたとされました。

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長谷堂城(山形県山形市)

長谷堂城は関ヶ原の戦いで東軍についていた最上義光の山形城の支城に当たり、「慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い」の舞台にもなりました。

上杉勢25000に対する最上勢は8000という戦いで人数からしても負け戦と言われるほどでした。

1600年9月8日、直江兼続は米沢城を出発し、9月12日には畑谷城を落とし、次いで長谷堂城近くの菅沢山に本陣を置いて城を包囲。

関ヶ原の戦いで家康が敗れるのを待っていましたが、届いた知らせは西軍・石田三成が敗れたとのことでした。

兼続はここで自刃しようとしましたが、前田慶次に諌められて撤退を決意するのです。

追撃されながらも10月4日に米沢城へ帰還しています。

坂戸城(新潟県南魚沼市)

坂戸城は上杉憲顕の家臣であった長尾高景の一族が、周辺の上田を領して上田長尾氏を称して居城としました。

1536年8月、長尾為景は晴景に家督を譲りますが、弟の景虎(後の上杉謙信)を推すものもかなりいました。

乱れた越後を治めるため、還俗した景虎と長尾晴景についた長尾政景の睨み合いとなったのです。

しかし、長尾晴景は隠居してしまい、跡を継いだ景虎が春日山城に入りました。

坂戸城主となった長尾政景は、1564年に琵琶嶋城主・宇佐美定満と共に野尻湖で溺死。

跡を継いだのが政景の息子・景勝でした。当時9才だったため、上杉謙信の養子となり春日山城に入ります。

そこで景勝と与六(後の直江兼続)の運命の出会いがあったのです。

与板城(新潟県長岡市)

与板城(よいたじょう)が築城される以前、2kmほど離れた地に本与板城があり、上杉氏の重臣飯沼氏の居城でした。

しかし、1507年に越後守護代・長尾為景らの「永正の乱」で攻められて滅んでいます。

代わりに長尾氏の家臣・直江景綱を城主におきましたが「御館の乱」の後に新しく与板城を築き、本与板城は廃城となりました。

与板城は直江家の居城でしたが、「御館の乱」の恩賞争いで殺害された直江信綱の後、未亡人となった「お船の方」と夫婦となった樋口兼続が直江兼続と名を変えて跡を継ぎました。

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