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豊臣秀吉にゆかりのある城

農民出身ながらも織田信長に重用され、後に天下統一を果たした成り上がり武将といえば「豊臣秀吉」。

彼はどのような人物だったのか、そしてどのように成り上がっていったのでしょうか。秀吉の人となりを知るために、彼の城にまつわるエピソードを調べてみました。

大阪城(大阪府)

いわずと知れた大阪のシンボル。信長を手こずらせ、後に焼失した石山本願寺の跡地に建てられた秀吉の居城です。

秀吉の城は「大坂城」で、現在の「大阪城」は実は秀吉が築いたものではありません。

秀吉の死後に起こった大坂の陣(1614年冬、1615年夏)において落城し、その後、徳川幕府の二代将軍、徳川秀忠が城主となり、徳川の形式になぞらえて再建したものが現在の「大阪城」です。

それでも、「太閤はんのお城」として、今でも多くの大阪民から愛されています。

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伏見城(京都府京都市)

伏見城は京都市伏見区の桃山という地に建てられていました。

歴史でも「安土桃山時代」と名付けられている通り、信長の安土と並んで当時を代表する秀吉の居城。

豊臣家の繁栄を物語るような豪華な城だったと言われています。

伏見は京都、大阪、奈良、近江の中継点としての役割が高い土地です。

秀吉はここを交通の要とするべく治水事業を進め、伏見城下の発展に繋げていきました。土木工事(治水)や築城において優れた才を持っていたことが伺えます。

聚楽第(京都府京都市)

聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、1586年(天正14年)に着工され、翌1587年(天正15年)に完成。豊臣秀吉の政庁兼公邸です。

関白となった秀吉が建てさせたお城です。

瓦には金箔が用いられるなど豪華絢爛で重厚な作りであったとされますが、わずか8年という短さで取り壊されることとなります。

その短さのため、構造などについては不明な点も多いようです。

姫路城(兵庫県姫路市)

ユネスコの世界遺産にも登録されている姫路城は日本を代表する名城。

姫路城は、実は秀吉が出世の足がかりにしたと言われています。

元々は黒田官兵衛が城主を務めていましたが、当時勢力を拡大していく信長の命を受けて中国地方平定に取組む秀吉に城を差し出したといいます。

姫路城は、中国地方攻めの拠点として大いに活躍しました。

高松上の水攻めを行っている最中に本能寺の変が起こり、秀吉は急いで敵方の毛利氏と和睦し、謀反人を討つために急ぎ引き返します。その道中で、体勢を整えるために立ち寄ったのが姫路城です。

「二度とこの城には立ち戻らない(なぜなら自分が天下を取るから)」という意思で、自らの軍の兵士たちに場内の金銀、米の全てを配りました。

そのことで秀吉軍の士気は向上しました。その後秀吉は光秀を討ち、姫路城での決意どおり、天下人へと成り上がりました。

このエピソードから、姫路城は「出世城」とも言われています・

秀吉の、人を自分の思い通りに動かすための「人たらしの才」は、このエピソードからも読み取ることが出来ます。

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長浜城(滋賀県長浜市)

農民時代からひたすら下積みを続けてきた秀吉が、ついに功績が認められ領地を拝領して初めて築城したお城です。現存はしていません。

長浜城のある近江は元々信長と同盟関係にあり、また、親戚関係でもある浅井長政の治める領地でした。

信長が同盟の条件である「朝倉氏と戦をしない」ことに反故にしたことから長政は謀反を起こしましたが、信長に追い詰められて自害という形で最後を迎えます。

秀吉は落城の際、長政のいる小谷城から信長の妹であり、長政の妻でもあったお市の方とその娘3人を救出しています。

その娘の一人、茶々(淀殿)が、後の秀吉の側室となったことも有名です。

朝倉打倒で貢献したことで長政の旧領地12万石を与えられることとなった秀吉は、その土地に長浜城を築城しました。

元々は今浜という地名だったそうですが、信長の名から一文字拝借し、「長浜」として城の名にもしました。

長政も信長に憧れており、自らの名の一部に「長」を取り入れたといいます。もしかすると秀吉はその思いを組んだのかもしれませんね。

墨俣城(岐阜県大垣市)

墨俣城(すのまたじょう)と聞くと何だか分かりづらいですが、「一夜城」と言えば聞いたことがあるかもしれません。

秀吉が一夜にして築いたといわれる一夜城(墨俣一夜城)です。

実際は1日で建てたわけではないそうですが、秀吉が出世するきっかけにもなったお城です。

宝寺城(京都府)

応仁の乱以前から建っていた城で別名山崎城とも呼ばれます。

秀吉が大坂城を築城するまでの間、本拠地とした城としても有名です。

交通の要として軍事や経済の両面で重要な役割を担っていました。

今は、ハイキングコースとして地域の人々に親しまれています。

肥前名護屋城(佐賀県唐津市)

秀吉は築城の才能があったのでしょうか。

人をやる気にさせる術を知っていたのか、名護屋城は17ヘクタールもの規模を誇りますが、わずか数か月で築き上げています。

もとは朝鮮出兵への拠点として作られました。

調べると秀吉の部下であり、築城の名手と名高い加藤清正が築城に関わっていたそうです。

この城は現存しませんが、今はVRの技術を用いてバーチャル名護屋城を擬似的に堪能することが可能です。

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石垣山城(神奈川県小田原市)

石垣山城は、神奈川県小田原にある小田原城攻めの際に築城した城です。

これも一夜で石垣作りの城を出現させたという逸話があり、「石垣山一夜城」とも呼ばれています。

しかし、文献などを調べると実際には80日ほどを費やしているそうです。それでも十分短期間ですが…。

1590年(天正18年)に起こった小田原合戦で北条氏の降伏を促すために周囲の樹木を伐採。まるで一夜のうちに築城したかのように見せたという話が有名です。

備中高松城(岡山県岡山市)

備中といえば岡山県。高松と聞くと香川の高松城を思う人も少なくありませんが、この城は備中高松城と呼ばれています。

湿地の地形を活用したつくりであることから沼城とも言われ、石垣のない構造をしていました。

秀吉は日本三大水攻めと呼ばれるほど「水攻め」を得意としていたようですが、この備中高松城でも水攻めを行っておりました。

今は、城址公園として整備され、備中高松城址公園資料館が建てられています。

備前高松城は、梅雨明けの時期には蓮の花が咲き乱れ、観光客が多く訪れる観光地として人気を集めています。

三木城(兵庫県三木市)

三木城は兵庫県三木市にある播磨の三大勢力別所氏の城です。

秀吉はここでは兵糧攻めを行いました。「三木合戦(三木の干殺し)」としても有名です。

しかし、なかなか苦心したようで攻略に1年10か月もの歳月を要したと言われています。

鳥取城(鳥取県鳥取市)

秀吉が信長から中国地方攻めを命じられていたことは先にも触れました。

中国地方攻めのなかでも悲惨な結末を迎えたものの一つがこの鳥取城で行われた戦で「鳥取の飢え殺し」と言われています。

三木城で行われた兵糧攻め(干殺し)、高松城の水攻めとあわせて「秀吉の三大城攻め」として有名です。

この戦に先んじて行われた三木城では前述の通り、長丁場の戦いになりました。

鳥取城での戦いでもそうなることを恐れた秀吉は、若狭から商戦を鳥取に送り込んで次々と穀物を破格の値段で売りさばきます。

結果、鳥取城での篭城作戦は兵糧が早々に付き最後には死者の肉を奪い合い、食するまでの事態に陥ったと言われています。

この事態を見た城番の吉川経家は切腹覚悟で織田と交渉し、自陣。

開城後、秀吉は大鍋で炊いたお粥を振舞ったといいますが、空腹に粥を食べ過ぎて急死したものも多いと信長公記には記されています。

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