徳川家康にゆかりのある城
徳川家康は1542年に岡崎城で生まれ、幼名は「竹千代」人生で2度にわたる人質生活を送っています。
後に天下の実権を握り江戸幕府を開き、初代の将軍となりました。
江戸城(東京都千代田区)
1590年に徳川家康が入城してから15代265年渡り、徳川家の居城だったお城です。太田道灌死後は上杉領となり、家臣の豊後守が入城しますが、1529年には上杉氏が北条氏に敗れ、入城した北条氏綱が城を修築しました。
しかし、豊臣秀吉が北条氏を討つと貢献した徳川家康は、褒美として北条の領地を与えられ、家康が入城しました。
岡崎城(愛知県岡崎市)
岡崎城は龍頭山に西郷稠頼によって築城、1531年に松平清康(家康の祖父)が城に入りました。徳川家康の生誕(1542年12月26日)の城としても有名です。
そのため、家康は8歳で今川義元の人質になり駿府城に移っています。
しかし、1560年に今川義元が「桶狭間の合戦」にて討たれると人質生活にピリオドを打ち、19歳の若さで岡崎城を奪い返したのです。
駿府城(静岡県静岡市)
駿府城は徳川家康が8歳~19歳まで今川氏の人質として暮らした城です。しかし、1568年に今川氏真が甲斐の武田信玄に攻め落とされると氏真は掛川城に逃れました。
これで実質、東海5か国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を手にした家康は、1585年に再び駿府城の築城に着手します。
1589年に完成した駿府城でしたが翌年に秀吉から命を受け、東海5か国が奪われ、代わりに関東への国替えをされています。
その後、豊臣の亡き後に起こった「関ヶ原の戦い」で勝利し、1603年に自ら「征夷大将軍」となって江戸幕府を開きます。
続いて1605年には2代将軍として秀忠を選び、翌年には駿府に戻り生涯を閉じたのです。
浜松城(静岡県浜松市)
今川領を制圧した徳川家康は、この地にあった曳馬城を大改築し、浜松城としました。駿府に攻め込もうと勢いづく武田信玄に備えるためです。
その頃、家康は岡崎城にいましたが、これを長男・信康に譲り、浜松城に移っています。
浜松城では29歳~47歳までの長い期間を過ごし、その間に起こった戦(姉川・長篠・小牧・長久手)は歴史に残る有名なものばかりです。
特に1572年に起こった「三方原の合戦」では、大敗した家康が浜松城に命からがら逃げ帰ったことでも知られています。
城では「空城計」といって全ての城門を開けさせて「かがり火」を焚かせたのです。
後を追ってきた武田方の山県昌景は、見事にこの策略に引っかかり警戒してそのまま引き上げています。
浜松城の城主は度々代っていますが、関ヶ原の戦い後、浜松城の城主になった人物が次々に出世したことから「出世城」とも呼ばれていました。
大坂城(大阪府)
初代の大坂城は豊臣秀吉が築いた城です。秀吉が亡くなると家康は秀吉の遺言を無視し、伏見城から大坂城へやって来ます。
本丸には豊臣秀頼、そして二の丸には家康の天守を築きました。
菩提寺として建立された方広寺の釣鐘に刻まれた文字(国家安康 君臣豊楽)に理由をつけ、1614年に「大坂冬の陣」が勃発しました。
しかし、戦の決着は和議になり、豊臣方は大坂城の内堀と本丸のみが与えられたのです。
実際には内堀までもを埋め立てられ、約束違反の理由から「大坂夏の陣」が起き、豊臣家は滅亡しました。
二条城(京都府)
関ヶ原の戦い後の1603年に徳川家康により、将軍の宿泊所として築かれました。家康は1614年に起こった「大阪冬の陣」の時、二条城から大坂へ向かいました。
また、二条城の二の丸御殿で15代将軍徳川慶喜が、大政奉還を行った場所です。
伏見城(京都府)
伏見城は1592年に豊臣秀吉が隠居所として築きました。秀吉亡き後の「関ヶ原の戦い」の前哨戦と言われる「伏見城の戦い」の舞台でもありました。
家康は直ぐに伏見城の改修と二条城の築城を始めました。
そして1603年に伏見城にて「征夷大将軍」の宣下を受け、3代家光までが伏見城にて将軍宣下式が行われました。
家康は1606年に駿府城の改築に携わって伏見城の廃城を決め、1623年に廃城になっています。
高天神城(静岡県掛川市)
高天神城は16世紀に今川氏の家臣・福島助春によって築城されました。その後、1536年「花倉の乱」によって福島氏は没落。代わって小笠原氏が入城します。
小笠原氏は今川義元が亡くなり、徳川家康の家臣になりました。
この城は度々、武田氏と徳川氏の争奪戦に巻き込まれたことでも有名です。
「高天神城の戦い」は1574年5月に始まり、武田勝頼は2万5千の兵をもって城を包囲し、城主・小笠原長忠は籠城戦に持ち込みます。
そこで家康に援軍を要請しましたが、1万の兵だったため、信長にも援軍要請を出したのです。
これを受けた信長はすぐに向かいますが、武田方にもこの情報が届いており、武田方は和睦交渉を計画します。
籠城していた小笠原長忠に信長援軍の話が伝わっておらず、武田勝頼に寝返りました。
これに代わって岡部元信が城主になり、城を奪われた家康は高天神城を取り戻すため戦に備えました。
家康は1575年の「長篠の戦い」で武田勢に大打撃を与え、さらに支城を次々と落として最後に高天神城を包囲します。
岡部元信は武田勝頼に援軍を要請しますが、勝頼は兵を出さずに見捨てられるのです。
徳川方に降伏状を出すも許されず、最後は本多主水によって討たれ、高天神城の戦いは終結を迎えたのです。
長篠城(愛知県新城市)
長篠城は豊川と宇連川の合流部に切り立つ、崖の上に建ちます。1508年には土岐氏の菅沼元成が築城しました。菅沼氏は元は今川氏についていましたが、桶狭間の合戦で今川義元が敗れると家康についています。
その後、菅沼氏が武田方についたため、家康は長篠城を攻め落とし、武田氏に備えて城を大改修しました。
その後、長篠・設楽原の戦で武田勢に勝利しました。
この長篠の戦いとは、武田勝頼による長篠城奪還のために始まった戦いです。
1574年に長篠城を包囲した武田勝頼に対して、織田信長は極楽寺山、徳川家康は高松山に本陣を置きました。
徳川・織田連合軍の鉄砲隊と馬防柵によって、武田氏は大打撃を受けてしまいます。
この戦いが武田勢を追い込む、第一戦になったのです。
奥平氏は城を守った功績により、新城城に移ったため長篠城は廃城になります。
大高城(愛知県名古屋市)
大高城は織田方に属していた水野氏の居城です。松平元康(家康)が今川家の人質だった頃、今川義元の命を受け、大高城に「兵糧入れ」を行いました。
織田信長は敵対していた今川方の大高城に対し、城のまわりに「丸根砦、鷲津砦」を造り圧力をかけてきたのです。
そこで今川義元から命を受けた「朝比奈輝勝」や「鵜殿長照」が大高城の守りに入り、1560年5月18日の夜に「松平元康」が無事に兵糧を届けて、城の守りに加わっています。
しかし、今川義元が「桶狭間の合戦」で敗れて亡くなったため、元康は岡崎城へ逃げ帰ったのです。その後は再び、織田信長の城になりました。