伊達正宗にゆかりのある城
「独眼竜」の名でも知られる伊達政宗は、伊達氏17代目の当主。東北地方の覇者となった人物です。
仙台城(宮城県仙台市)
仙台城の前身となる「千体城」は島津氏や国分氏の城でした。国分盛重は(政宗の叔父)伊達政宗と仲が悪く、この地を離れ廃城になりました。豊臣秀吉亡き後の「関ヶ原の戦い」では、東軍に味方して功績をあげた政宗は1601年に千代に城を構え、地名を「仙台」と改めています。
仙台藩の初代藩主となり、築いた城は標高202mの青葉山に建ち大変堅固な城でした。
西側と南側には青葉山、東側には広瀬川があり、万が一敵が攻めてきても北側しか入口がないという特殊な城でした。
政宗によって城下町が整備され、江戸時代には発展を続けてきた仙台でしたが、城には天守閣が築かれることはありませんでした。
それは政宗を疑う徳川家康に対して、敵対する腹はないということを見せるためだったようです。
2代目忠宗は城下町との利便性をはかるため二の丸を造り、その後は本丸ではなく二の丸を居城として政務も行ったと伝わります。
米沢城(山形県米沢市)
伊達政宗は1567年8月3日にこの地で生まれ、幼名を「梵天丸」といい、11歳で元服し「政宗」としました。5歳で疱瘡(ほうそう)にかかり、片目がを失明、そのため「独眼竜」の呼び名があります。
父・は伊達輝宗、母は最上義守の娘・義娘(19歳)で対立する伊達家と最上家の縁を結んだのです。
1584年に父が隠居し、跡を継いだ政宗が17代目となり、24歳まで過ごしました。
豊臣時代には秀吉に召しあげられるまでの200年間、伊達家の居城となった城です。
岩出山城(宮城県大崎市)
元は「岩出沢城」と呼んだ城はこの地の大名大崎氏の家臣・氏家氏の居城でした。豊臣時代、大崎氏が入城しますが秀吉は岩出沢城の葛西晴信が「小田原征伐」に参陣しなかったため「奥州仕置き」を進めてきたのです。
奥州地方の刀狩りや検地、抵抗するものは容赦なく殺すという悲惨さで、これにより各地で不満が募りはじめました。
その後、「大崎・葛西一揆」が起こり、秀吉に従うはずの伊達政宗にも、この一揆の加担が疑われました。
後に疑いは晴れて無罪になるのですが米沢が没収され、1591年に岩出沢城に移されてしまいます。
城は各地で多発する一揆に備え、呼ばれた徳川家康が改修して政宗に渡され、この時に城の名前も「岩出山城」と改められました。
政宗は仙台に移るまでの12年間をこの城で過ごしたのです。
その後は政宗の四男・宗泰が入城し、岩出山伊達氏の居城として幕末・明治まで続きました。
黒川城※会津若松城(福島県会津若松市)
黒川城は蘆名氏の居城でしたが、1589年に起きた「摺上原の戦い」で伊達政宗に敗れています。政宗23歳でほぼ奥州全域を支配しています。
その後、政宗が晴宗の弟・宗澄を城主に置きましたが、小田原攻めを終えた豊臣秀吉に召し上げられています。
その理由には政宗が秀吉の出した停戦令を聞かず、戦を強行したことにありました。
加えて政宗は秀吉の「小田原征伐」に参戦したものの、遅れたという理由から黒川城は米沢城と共に没収。
伊達家は岩出山城に移ることになるのです。