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毛利元就にゆかりのある城

毛利元就は1497年安芸に生まれ、幼名を「松寿丸」といい「三矢の教え」でも知られる戦国武将です。

吉田郡山城(広島県安芸高田市)

毛利氏の居城となった吉田郡山城は1336年に毛利時親により築城されました。

元就の時代に勢力が拡大され、孫の輝元が広島城を築くまで代々居城になっていました。

元就が城の修築で人柱をたてる代わりに「百万一心」と掘った石碑を建てたことは有名な話です。

また毛利・尼子の決別となった「吉田郡山城の戦い」が起こったことでも知られます。

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月山富田城(島根県安来市)

出雲の尼子氏の居城で難攻不落の城として知られています。

吉田郡山城の戦いで尼子に勝利した毛利氏・大内氏は勢いにのり、尼子の月山富田城を攻めましたが落とせずに終わっています。※第一次月山富田城の戦い

毛利元就は時を待ち、その後「厳島の戦い」で陶晴賢を討った後、大内氏を下し、再び尼子氏へ目を向けたのです。

今回は以前のような攻め方はせず、まずは尼子の精鋭部隊を崩壊させました。

1561年に尼子晴久が亡くなり、義久が後を継ぎます。

そんなさなか元就は石見全土を手中に治め、ますます勢いにのって尼子の支城・白鹿城を討ちました。

続いて月山富田城の補給路を断ち4月17日には総攻撃を仕掛けますが、元就の策略によって毛利勢は4月28日に一旦中断して後退しています。

再び戦を仕掛けるまで元就は兵を十分に休ませ時を待ちました。そして迎えた9月に月山富田城を攻めたのです。

長きに渡る戦いと疲れより、尼子軍には離脱するものが増え11月21に降伏。こうして出雲は元就のものとなったのです。※元就71歳

猿掛城(岡山県)

猿掛城は吉田郡山城の支城。毛利元就が青少年期を過ごした城です。

1500年に父が隠居する際、当時4歳の元就を連れてきました。

元就が27歳になった時、甥の幸松丸の後を受け、吉田郡山城へ向かいました。

元就は幼名を松寿丸、元服して元就と呼びましたが、猿掛城では「多治比殿」と親しみを込まれて呼ばれていたようです。

この城では、毛利隆元・五龍局も生まれています。

鏡山城(広島県東広島市)

鏡山城は大内氏により築かれた城です。

大内義隆の時代に出雲の尼子氏が安芸にも勢力を伸ばし始めました。

1523年には尼子経久に従っていた毛利元就(毛利当主・幸松丸の後見)が、大内方の蔵田房信の守る鏡山城を攻めました。

元就はこの戦でも策を巡らせて力で攻め落とそうとはせず、蔵田家を内部分裂するように仕向けたのです。

これに引っかかった蔵田勢は味方同士の討ち合いとなり、城内に尼子氏を上手く引き入れることに成功しました。

これにより鏡山城は落城し、房信は自刃しました。

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佐東銀山城(広島県広島市)

1221年「承久の変」の恩賞に甲斐武田氏は安芸国守護に任命され、この地に移ってきました。

鎌倉末期、大内氏に従っていた武田信宗が佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を築きました。

武田元繁の代になると大内氏に反旗を翻したため、「有田中井手の合戦」で大内方の毛利元就に敗れ亡くなりました。

元就の記念すべき初陣は勝利て飾ったのです。

元繁の子・光和は尼子と組み大内氏に対抗しますが、吉田郡山城の戦いで尼子を撃退。

さらに勢いにのる毛利元就に攻められ、佐東銀山城は落城しました。※佐東銀山城の戦い

その後、大内方の城番・冷泉隆豊が置かれますが、1554年に元就によって城は攻略され、以降は毛利方の城になりました。

宮尾城(広島県廿日市)

1544年、毛利元就が「厳島の戦い」で陶晴賢をおびきよせるために築城された城です。

三方を海に囲まれ水運も多いに利用できる場所でした。

「日本三大奇襲」ともいわれる「厳島の戦い」は、1533年に大内義隆が陶晴賢に滅ぼされたことから始まりました。

これに怒り狂った義隆の姉婿・津和野城主の吉見正頼は、陶晴賢打倒に立ち上がりました。

元就には吉見、陶晴賢のどちらからも味方につくよう話がありましたが、吉見方へついたのです。

宮尾城を攻めようとする陶晴賢は2万の軍勢で厳島の勝山城に本陣を置き、対向する宮尾城にはわずかに300の兵しかおかなかったのです。これは元就の作戦でした。

その頃、元就は村上水軍(来島・因島・三島)を味方につけ、吉川元春と共に包ヶ浦から小早川隆景は海から陶本陣を襲いました。

陶晴賢はこの戦で自刃、大内氏も没落して毛利の配下となるのです。

山吹城(島根県大田市)

山吹城の近くで1309年に銀山(鉱山)が発見されています。今に残る石見銀山です。

戦国の世になると銀山の争奪戦が起こるようになり、1530年に銀山の守護のため大内義興が標高430mある要害山に山吹城を築きました。

出雲の尼子氏、石見の小笠原氏が奪い合いをし、1541年に大内義興が「大寧寺の変」で自害すると大きな動きがありました。

それまで大内氏についていた毛利元就が頭角を現します。

1555年に元就は「厳島の合戦」で陶晴賢を討ち、山吹城主・蜂賀長信が毛利方についたこともあり、山吹城は毛利の城になりました。

ですが1588年、尼子晴久は山吹城を攻め、見事に毛利を敗って蜂賀長信を自害させ、城を尼子のものにしたのです。※忍原崩れ

その後は尼子氏により、本城常光を城主においています。

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