お城の部屋
お城マニアが教える名城の歴史
お城の部屋 > 戦国武将にゆかりある城 > 長宗我部元親にゆかりのある城

長宗我部元親にゆかりのある城

長宗我部元親は1539年に長宗我部国親の長男として岡豊城に生まれました。

戦国時代の土佐の大名で長宗我部第21代目の当主になります。

岡豊城(高知県南国市)

岡豊城(おこうじょう)は鎌倉時代、標高97mの岡豊山に築城された長宗我部氏の居城で長宗我部元親(もとちか)生誕の地です。

山頂に主郭部を置き「詰ノ段(本丸のこと)」と呼ばれ、ここから二ノ段、三ノ段、四ノ段と段階状に並んでいます。※「詰」と呼ぶのはこの辺りでは一般的ですが、他ではあまり類がなく珍しいとされています。

朝倉城を落とし四国を平定した直後、元親のもとに豊臣秀吉が土佐一国で配下になるよう条件を出されました。

断る元親は秀吉に攻められて降伏します。後に秀吉に土佐一国を与えられ、拠点とする城を大高坂城や浦戸城へ移しました。

スポンサーリンク

浦戸城(高知県高知市)

浦戸城は、桂浜の背後にそびえる山に本山茂宗により築城されたのが始まりです。

西側を除く三方が海に面し、海上の要ともなってきた場所に宗我部元親が浦戸城が完成しました。

元親は本山氏を抑え、四国を平定した後に豊臣秀吉に土佐一国を与えられ、1588年(天正16)に大高坂城を築城しますが、鏡川の治水に失敗して諦めています。

そこで1591年(天正19)に浦戸城を築城し、元親の息子・盛親が関ヶ原の戦いで敗れるまでのおよそ10年間、長宗我部氏の居城となりました。

浦戸の港は海上交通の発着点にもなり、秀吉の命による小田原征伐や朝鮮出兵にもこちらを利用したと伝わる場所です。

白地城(徳島県三好市)

白地城(はくちじょう)、阿波の国と伊予の国への街道の要所でした。

鎌倉時代に近藤氏(後に大西氏となる)によって築城され、戦国時代には三好氏の居城となります。

土佐を手にした長宗我部元親は、次に阿波へも侵攻するため白地城を襲います。

元親は敗れますが諦めず、白地城の大西氏も戦をやめて元親に人質を差し出して和議を結んだのです。

しかし、大西氏が仕えていた三好氏が織田信長に援軍要請をしたため、長宗我部元親を再び敵にまわします。

これにより大西氏は讃岐の麻城へ落ちのびました。

白地城に入った元親は秀吉の四国平定を迎え討つための本陣を置きましたが、わずか3ヶ月で降伏しています。

大高坂城※高知城(高知県高知市)

初期の大高坂城は南北朝時代に大高坂松王丸が築城しますが、1341年(興国2)北朝に攻められ落城しています。

1588年(天正16年)に土佐一国の大名となった長宗我部元親が、岡豊城から移築して「大高坂城」となりました。

大高坂城は岡豊城に比べると平地であり、大規模な城下町も造ることが可能で浦戸の港も近いため海上交通も利用できたのです。

しかし、欠点があり湿地帯のために水はけが悪く、鏡川の流れが度々氾濫を起こしてました。そのため僅か3年で大高坂城を離れ、浦戸城を築城しています。

1600年に起きた関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が西軍に味方して敗れ、所領が没収。代わって入城したのが山内一豊でした。

土地の名前も河川に挟まれていたことから、「河内」→「高智」→「高知」とされ、現在の天守閣は山内一豊により築城されたものです。

スポンサーリンク

朝倉城(高知県高知市)

本山氏は本拠を本山城として構えていましたが、本山茂宗が平地にある朝倉城に移されました。

長浜の戦いから2年後となる1562年長宗我部元親に攻撃されますが、大変堅固な城であったことから本山茂辰に撃退されてしまいます。

悩んだ元親は懐柔策をとり、本山茂辰についていた諸豪族らを見事に味方につけたのです。

これには本山茂辰はどうすることもできなく、1564年に戦いを終えることなく病死、息子親茂が後を継ぎました。

1563年、親茂は朝倉城を焼き払い落城、本山城へ戻ります。しかし、元親の本山潰しが再び始まりました。

本山城の建つ場所は元々本山氏に城を追いやられた森氏の居城がありました。

命からがら元親のもとへやって来た森孝頼に「潮江城」を与え、身を守りました。

その森孝頼に「今こそ城を取り戻すチャンスだ」と襲わせ、本山親茂を追いやっていきます。

長きにわたる元親の知恵と力により、1568年に本山氏も元親の支配下になるのです。

長浜城(滋賀県長浜市)

本山氏配下の居城とされ、長浜の戦いでは長宗我部元親が22歳で初陣を飾ったことでも有名です。

1560年5月26日、長宗我部国親が種崎城に送った兵糧を積んだ船が、本山氏の家臣に襲われる事件が起こりました。

先頭は殺され、兵糧の米は奪われてしまいこれに怒った国親は長浜城を攻撃します。

長浜城は修築中で、城の門が腐っている情報を聞きつけた国親は、工事に関わる土佐の福留右馬丞がいることを知り、門を直す振りをしてすぐに壊れるように細工をさせて夜襲を起こすのです。

長浜城主は朝倉城の本山茂辰に報告し、城を取り戻すための戦いが始まりました。

1560年5月28日、本山軍2000の兵と長宗我部軍1000の兵が戸ノ本で対決。これを長浜の戦いと呼びます。

この時、長宗我部元親はわずか50騎程で戦いに挑み、初勝利を挙げています。

一方の本山茂辰は浦戸へ追い込まれ、朝倉城へと逃げ帰ります。

浦戸城にて本山茂辰を倒すはずでしたが、長宗我部国親が病に倒れたため撤退。国親は本山氏を倒すことなく亡くなるのです。

スポンサーリンク
HOME