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織田信長にゆかりのある城

織田信長といえば、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」など、苛烈で冷酷な人物と評されることの多い人物。

一方では非常に合理的で当時の人にはない、革新的な思考を持つ人物だったことが分かる情報も多く残っています。

今回は信長とゆかりのある城を中心に彼がどのような考えを持って動いていたか、そして彼に関連するお城ではどのようなことが起きていたのか、調べてみました。

安土城(滋賀県近江八幡市)

琵琶湖のほとりに立てられた絢爛豪華な城。信長が「天下布武」の象徴として自らの領地に築城。天守の高さは焼く32mとされ、遠目からでも信長の威光を一目で確認することができたと言われています。

おもしろいのは、この城の天守や御殿は築城後民衆に開放されたということです。

男女を問わず誰もが自由に城を見物できる許可を与えたといいます。

このことからも信長の革新性が垣間見えてきます。

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岐阜城(岐阜県岐阜市)

今ではコンクリート天守と揶揄されることもありますが、信長が天下布武への足がかりとしたのがこの岐阜城です。

信長の先進的な発想力は軍略だけには留まりません。

彼はこの地で課税を免除した「楽市楽座」を設け、城下の経済活性化に寄与しました。

岐阜城は金華山の頂上にあり、町を一望することができます。

現在はロープウェーが通っており、頂上までは一直線。岐阜観光のおすすめスポットのひとつになっています。

那古野城※名古屋城(愛知県名古屋市)

今川義元の父、今川氏親が築城した城であり、信長生誕の地とも言われています。

現在の名古屋城の二の丸付近に建っていたお城です。

那古野城は1521年~28年にかけて今川の尾張進出の拠点でしたが、当時同じく尾張統一に奮闘していた信長の父織田信秀の策略により、織田家のものとなりました。

その後、元服前の信長の居城となったのです。

清洲城(愛知県清須市)

三谷幸喜脚本の映画タイトルになった「清州会議」。

本能寺の変で命を落とした信長の後継を決めるための歴史に大きく関わる重大な会議の名称です。

天承10年6月2日の本能寺の変によって光秀は一躍天下人となります。

しかしその天下は秀吉によってわずか13日で幕を閉じました。俗に言う「三日天下」です。

これまで各地に勢力を伸ばしていた信長、その死が広まれば世の中に大きな混乱が生まれるのは目に見えていました。

そこで清洲城へ信長の重臣が終結し、会議が行われました。

この中で光秀を討った秀吉が急激に影響力を強めました。

これまで筆頭家老だった柴田勝家の影響力は低下し、秀吉がトップに躍り出ることになります。これが、後の「賤ヶ岳の戦い」へと繋がっていきます。

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二条城(京都府京都市)

京都の観光名所としても有名な世界遺産「二条城」。しかしこれとは別の二条城があることをご存知ですか?

実は信長も二条城を築城しているのです。現在は旧二条城跡として石碑が残っており、これは室町幕府最後の将軍足利義昭のために信長が築城したものです。

築城した理由は、なんと義昭が三好三人衆に襲撃されたことを案じてという、なんとも心優しい理由からでした。

義昭が将軍の座を追われるとすぐに解体されてしまいましたが。現在は跡地に平安女子学院高・中学校が建てられています。

犬山城(愛知県犬山市)

犬山城といえば日本で5つある国宝のお城のひとつ。

天守は日本最古と言われ、その美しさや佇まいから観光地としても高い人気を誇ります。

天守に至るまでの石畳の大手道には桜や紅葉などが立ち並び、季節ごとに装いを変えた彩りを楽しめます。

天守を背景に見頃を迎えた紅葉など、絶好のフォトスポットでもあります。

小牧山城(愛知県小牧市)

信長が初めて築城した小牧山城は、美濃攻略の本拠地として用いられました。

ここでも信長の才覚は発揮されています。

これまでの城作りは堀と土塁で城を守ることが一般的とされていましたが、信長はいち早く石垣を用いました。

現在残る土塁は信長の死後、家康の時代に合戦に備えて築かれたものです。

2019年には小牧山城史跡情報館が誕生しました。

小牧山城の石垣などの発掘成果や小牧長久手の戦いの映像・パネル資料などを見ることができます。

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