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松山城

松山城

松山城の基本情報

名所松山城
別名:金亀城・勝山城
文化財史跡
区分
国の史跡
三大平山城
現存天守
三大連立式平山城
住所〒790-0008
愛媛県松山市丸之内1
☎089-921-4873(松山城総合事務所)
築城1602年
築主加藤嘉明
入場料天守:一般510円小人150円(小学生)
スタンプ
設置場所
松山城天守入口


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松山城の歴史

松山城は1583年に賤ヶ岳の戦いで武功をあげた賤ヶ岳七本槍の一人である加藤嘉明が築城した城で、三大平山城の一つとして数えられている他、姫路城と並び三大連立式平山城の一つでもあります。

元々は豊臣秀吉の部下で四国平定や九州征伐でも武功をあげた武将でしたが豊臣秀吉の死後、豊臣政権下では加藤嘉明などの武断派(軍務を担った諸将)と石田三成ら五奉行をはじめとした文治派(政務を担った諸将)との間で対立が起こっていました。

1599年、それまで両派の間に立ち調停役となっていた前田利家が死去し、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7勝は石田三成殺害を企て、三成を蟄居させることに成功しました。

嘉明をはじめとした武断派は筆頭大老であった徳川家康に従っていたため、1600年の関ヶ原の戦いでは上杉に叛意ありとした家康に従って東軍に与しました。

その機に乗じて石田三成が挙兵すると嘉明は美濃国の岐阜城を大手七曲口から攻め、大垣城攻めにも参加、関ヶ原の戦い本戦でも石田三成軍の本隊と交戦し、武功をあげました。

その後、これらの功績により豊臣政権時代からの所領10万石に加え、さらに10万石が加増され、伊予国において藤堂高虎と並び20万石の大名となりました。

1601年徳川家康に松山城の前身となる勝山城の築城許可を得て翌年の1602年に築城を開始し、同時に城下町の整備も行いました。

1603年にはそれまでの本拠地であった正木から勝山へと拠点を移し、地名も松山に改名しました。

1606年から1609年にかけては江戸城や駿府城の修築、篠山城築城などにも従事し、1614年の大阪冬の陣では豊臣恩顧の大名であることから嘉明本人は江戸城の留守居となったため、嫡男の明成が出陣し、1615年の大阪夏の陣では嘉明が出陣しました。

1619年、福島正則が改易となり嘉明は正則の身柄を預かり、広島城の接収役も務めましたが1627年に嘉明は松山城の完成前に会津へ転封となり、代わって蒲生忠知が松山藩24万石の松山藩主となりました。

しかし、1634年に忠知は参勤交代の途中で死去し蒲生家が断絶となると1635年、久松松平氏の松平定行が15万石で松山城に入城し松山藩主となりました。

それ以降、明治維新まで松平家が藩主を務め、1868年に土佐藩が松山城を受領・保護しましたが1870年三之丸が焼失、1871年廃藩置県により、松山藩から松山県となり、失火により二之丸が焼失、1873年に廃城令が発せられ、一部の建物が解体されました。

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松山城の観光ポイント

松山城は現存天守が残る数少ない城郭の一つです。

度々の火災などで建物のいくつかは失われてしまいましたが天守をはじめとして乾櫓や野原櫓、門など江戸時代から残る建物も多くあり重要文化財に指定されています。

その中でも野原櫓は日本に現存している唯一の望楼型二重櫓で大変貴重なものです。

また、二之丸から本丸にかけて登り石垣があり、彦根城と松山城でしか見ることができないものです。

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