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石田三成にゆかりのある城

石田三成は豊臣時代の五奉行の一人。秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは西軍(豊臣方)を率いた武将です。

佐和山城(滋賀県彦根市)

「本能寺の変」で信長亡き後、近江の佐和山城は豊臣方の城となり、天正19年(1591年)に石田三成が入城します。

「三成に過ぎたるもの2つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの城でした。

三成によって五層の天守が築かれますが、父・正継に任せ、三成は奉行としての任務があるために伏見城に滞在したようです。

秀吉がこの世を去ると慶長15年(1600年)9月に関ヶ原の合戦が起こります。

佐和山城は徳川家康により攻撃され落城。一族は自害しました。

逃亡していた三成も捕られ、京都六条河原で斬首、41歳の生涯を終えるのです。これを「佐和山の戦い」と呼びます。

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長浜城(滋賀県長浜市)

天正3年(1575年)豊臣秀吉が人生で初めて築城した城です。

信長が琵琶湖周囲に配置した四つの城の1つにあたります。(安土城・坂本城・大溝城・長浜城)

琵琶湖に面した水城で城内には船着き場も残り、秀吉はここの地名「今浜」を信長から一文字とり「長浜」と名付けました。

城の足元には落城した小谷城の城下町を長浜に移し、後に築くことになる大坂城の基盤を造り上げています。

「三献の茶」というエピソードがあり、秀吉が鷹狩の帰りに立ち寄った観音寺でお茶したときの話です。

お茶を持ってきたのが佐吉(三成の幼名)でした。

秀吉は渡された大きな茶碗に入ったたっぷりのぬるいお茶を飲み干し、さらにもう一杯。二杯目は先ほどより、少し熱めのお茶を半分、さらに三杯目は小さな茶碗に熱いお茶を入れてきました。

利口で度胸もある佐吉に惚れこみ城に連れて帰ったと言われ、2人の出会いの場所(長浜城)として知られています。

肥前名護屋城(佐賀県唐津市)

小田原城を落とし天下を統一した豊臣秀吉が、次に狙ったのが朝鮮でした。

1591年8月秀吉は朝鮮に渡る「唐入り」のため、足掛かりになる場所を探し、備前の「勝男山」に肥前名護屋城を築かせたのです。

釜山まで120km余り、途中には壱岐や対馬の島があり、兵や馬、食料を安全に運ぶことができると判断したようです。

工事はかなりのスピードで進められ、1592年3月には完成されています。

石田三成らをはじめ、朝鮮攻めする大名らの陣屋が118箇所も造られていました。

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忍城(埼玉県行田市)

豊臣秀吉は関東の北条氏攻めと合わせて北条配下の諸城も攻略しようとしました。

舘林城や忍城(おしじょう)攻めがそれにあたり、忍城は舘林城に続いて石田三成が水攻めにしようとした城です。

忍城は湿地帯を利用した沼の中にある水城。過去には北条氏康や上杉謙信からの攻撃に耐え抜いたこともある大変守りの固い城です。

三成は忍城攻めに手こずり、秀吉に相談すると「水攻め」の案をもらいました。

城の周りに28kmに及ぶ堤防「石田堤」を築き、忍城を水の底に沈める作戦です。

天守のある小島が水の中に浮かぶ姿になりましたが、堤防は決壊してしまい失敗。

そればかりか三成の軍にまで被害が及んでいました。手こずる三成の元には小田原城を落とした秀吉らが合流し、7月14日に開城されました。

忍城を落とすまでに1ヶ月もかかってしまった三成は、これ以降「戦下手」とのレッテルをはられてしまうことになりました。

舘林城(群馬県館林市)

舘林城は別名を尾曳城(おびきじょう)と呼び、周囲の川や沼を上手く利用した堅固な城として石田三成の舘林城攻めにも残されています。

天正18年(1590年)5月29日、石田三成の軍勢2万が舘林城を総攻撃した際、周りを囲む沼に足元をとられてしまい、城に入ることすら出来ずにいたのです。

そこで三成は沼に筏を投げこみ2つの路を作り出しました。

その幅16mあったと言われ、これを渡り翌朝に攻撃する事にしましたが、不思議なことに朝には路がさっぱり無くなっていたのです。

底無し沼だと気づいた三成は武力による攻撃をやめて北条氏通を通じ、降伏をすすめた結果、翌日の5月30日に開城されました。

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大垣城(岐阜県大垣市)

麋城(びじょう)や牛屋城との別名を持ち、江戸時代には戸田氏により大改築が行われました。

現在の姿からは想像が出来ませんが、連郭輪郭複合式平城で4重の水掘を巡らした層構えの城だったと伝わります。

大垣城には関ヶ原の戦いの前日に石田三成が本陣を置きました。

1600年9月14日、杭瀬川の戦いを勝利に導いた三成は、大垣城に福原直高を大将に熊谷直実ら7500人の兵を残し、主力を連れて関ヶ原に向かいました。

翌日、関ヶ原の戦いで西軍は敗れ三成は敗走。隙を攻められた大垣城も東軍の水野勝成らにより三の丸が落とされてしまいます。

大垣城は9月23日に開城、福原直高は伊勢の朝熊山に追いやられ自刃しています。

伏見城(京都市伏見区)

1592年に豊臣秀吉が隠居所として築城され、6年後の1598年に秀吉は亡くなっています。

秀吉を追うように7ヶ月後に前田利家が亡くなると、加藤清正らに命を狙われた石田三成は、伏見城にある屋敷「治部少丸(じぶしょうまる)」に逃げ込みます。

その後、徳川家康に助けを求め一旦は佐和山城へ隠居の形をとることになります。

そんな折、直江状が家康の元に届き、書かれていた内容に腹を立て関ヶ原の戦いに発展します。

しかし、当時は徳川と豊臣の仲はくすぶった状態であったことから伏見城を空にすることは出来ず、鳥居元忠を伏見城に残して家康は会津へ向かいます。

東軍・鳥居元忠の軍勢2千人、これに対抗したのが西軍・石田三成の軍勢4万人。結果は西軍の勝利に終わり、鳥居元忠は切腹を命じられました。

水口城(滋賀県甲賀市)

天正11年に石田三成が4万石をもって初めて築いた城と伝わります。

現在に残る水口城ではなく、標高283mの大岡山にあった水口古城こそが三成の城のようです。

水口が位置的に東海道が通じる街道の要所にあたることから、東の備えになっていました。

石田三成が禄高半分の2万石を渡して召し抱えた島左近とのエピソードが残る城でもあります。

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