犬山城
犬山城の基本情報
名所 | 犬山城 別名:白帯城 |
文化財史跡 区分 | 国宝 現存天守 |
住所 | 〒484-0082 愛知県犬山市犬山北古券65-2 ☎0568-61-1711(犬山城管理事務所) |
築城 | 1469年 |
築主 | 織田広近 |
入場料 | 一般500円 子供100円 |
スタンプ 設置場所 | 城郭内 |
犬山城の歴史
犬山城は平山城で元々は岩倉織田氏の砦があったところでした。砦を築いたと言われているのは岩倉城の城主だった織田広近です。織田広近の兄・織田敏広は1467年から始まった応仁の乱で西軍に属し、東軍の斯波義敏や清州織田氏の織田敏定に対して有利に戦をすすめますが1497年に同盟関係にあった美濃の守護代・斎藤妙純が戦死し、岩倉織田氏の勢力は衰えていきました。
戦国時代初めの尾張は尾張国守護の斯波家の下に守護代である「清州織田家」と「岩倉織田家」があり、さらに清州織田氏には配下に清州三奉行と呼ばれる「因幡守家」「藤左衛門家」「弾正忠家」がありました。
守護代の力関係は主家である岩倉織田氏の方が強かったようですが上記の応仁の乱以降は岩倉織田氏の力が衰退し、清州織田氏が力をつけてきました。
犬山城を改修した織田信康は三奉行・弾正忠家の織田信秀の弟で織田信長の叔父にあたる人物です。
1537年、信康は自身の居城であった木ノ下城を廃城にし、犬山城を築城し居城にしました。この時に現在の位置に城郭が作られたようです。
しかし、1544年、城主・織田信康は美濃の斎藤道三と戦い戦死、城主には信康の子である織田信清がつきましたが1564年、織田信清は従兄弟の織田信長と対立し、甲斐へと逃げました。
それ以降の城主は信長の家臣・池田恒興や織田勝長が務め、本能寺の変以降は信長の息子・織田信雄の配下・中川定成が城主となりました。
小牧・長久手の戦いでは一時池田恒興に奪取されたものの1587年には信雄に返還されました。
関ヶ原の戦いでは西軍の拠点となり敗北しましたが東軍の木曽衆を犬山城で開放したことが評価され、当時の城主・石川貞清は助命され、その後何度か城主を代えたのち、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になると2004年まで成瀬家の城となりました。
犬山城の観光ポイント
犬山城は国宝である現存天守を有しており、日本に存在する現存天守の中でも最も古いものだと言われています。天守は標高85mの崖の上に建てられ、背後には木曽川が流れる自然の要害となっています。
この現存天守の他にも石垣や土塁などの貴重な遺構が残っています。
残念ながら櫓や門は明治時代に行われた廃藩置県の際に取り壊されてしまい、残っていませんが再建造されたものがあります。
天守台の石垣は野面積みという古い時代の積み方で積まれています。この積み方は大小様々な大きさや形の石を組み合わせて積まれています。
また、犬山城白帝文庫には犬山城縁の品々が展示されていますので、こちらも合わせてご覧ください。