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岡崎城

岡崎城

岡崎城の基本情報

名所岡崎城
別名:竜城
文化財史跡
区分
市指定史跡
住所〒444-0052
愛知県岡崎市康生町561
☎0564-22-2122(岡崎城天守閣)
築城1452年
築主西郷稠頼・頼嗣
入場料岡崎城:一般200円小人100円(5歳以上)
岡崎城公園:無料(見学自由)
スタンプ
設置場所
天守1階


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岡崎城の歴史

岡崎城は菅生川と矢作川の合流地点にある丘陵を利用して造られた砦で当時三河国の守護であった仁木氏の守護代・西郷稠頼が子の頼嗣と共に北側を防御する目的で築城したものです。

その頃は城のある丘陵地の龍頭山にちなんで「龍燈山城」と呼ばれていたようです。

その砦を奪取した徳川家康の祖父・松平清康が拡張・改修を行い築城されたのが岡崎城です。

同時に城郭の整備も行い勢力を広げることに成功しましたが1535年、松平清康は三河統一を目指し、斎藤道三と織田を挟み討ちにすべく尾張へ侵入していました。

12月、織田信秀の弟・信光の守山城を攻め、尾張国春日井郡森山の陣中で自らの家臣である阿部正豊に霧殺されてしまいました。

一説には清康の叔父・松平信定が仕組んだことのようです。余談ですが清康暗殺に使われた刀が千子村正だと言われています。

清康が暗殺された後は息子の松平広忠が家督を相続し、松平宗家の8代当主として岡崎城主となります。

1542年、岡崎城内にて後の徳川家康となる竹千代が誕生しますが1547年に今川氏への人質として駿府に送られることになりましたが護送中に戸田康光の裏切りにあい、駿府ではなく尾張の織田信秀のもとに送られてしまいます。

それでも広忠は今川氏への従属を貫き、家康は尾張で人質として生活を送りました。

それから2年後の1549年、家康の父・広忠が謀叛によって殺害され、岡崎城は今川氏の支城の一つとして城代がおかれると、今川義元は織田信弘との人質交換によって家康を取り戻しましたが岡崎城には城代が入城していたために駿府へと送られました。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると竹千代改め松平元康はようやく岡崎城を取り戻して、従属していた今川氏から独立し、1562年織田信長と清州同盟を結びました。

1570年、家康は岡崎から遠江に移り、浜松城を築城しそこを本拠地としました。

自身が移動した後は息子の松平信康を城主にしますが謀反の疑いをかけられて信康は自刃し、その後は重臣たちが城代を務めました。

1590年、家康が関東に移封になると代わって豊臣家の家臣・田中吉政が入城し、家康へのにらみを利かせるために城を拡張しました。

石垣や城壁などが用いられたのはこの時で城下町の整備も積極的に行われました。

江戸時代以降は家康生誕の城として徳川家の譜代家臣たちが代々入城し、城主を務めました。

1873年、廃城令によって廃城処分となり天守を含む建物は撤去されてしまいました。

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岡崎城の観光ポイント

現在の天守は昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたものであり、当時はわかりませんでしたがその後の発掘調査により国内でも有数の規模を誇る城であったことが判明しました。

市指定史跡になっており、再建天守の他復元された大手門や徳川家康の産湯に使ったといわれる井戸などがあります。

天守の中は歴史資料館になっていますが、もっとたくさんの資料が見たいという方には三河武士のやかた家康館をオススメします。

こちらでは展示のほかに甲冑の試着体験や刀の重さを体験できるコーナーもあるようなので家族で楽しむことができます。

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