弘前城
弘前城の基本情報
名所 | 弘前城 別名:鷹岡城・高岡城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 現存天守 重要文化財 |
住所 | 〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1 ☎0172-33-8739(弘前市商工観光部公園緑地課) |
築城 | 1611年 |
築主 | 津軽為信・信枚 |
入場料 | 一般(高校生以上):310円 子供(小中学生):250円 |
スタンプ 設置場所 | 天守(弘前城史料館)内1階 ※11月24日~3月31日は弘前市緑の相談所に設置) |
弘前城の歴史
弘前城は江戸時代に建てられた天守やなどが現存する少ない城の一つです。国の重要文化財として指定されているだけではなく、弘前城址は国の史跡としての指定も受けています。
弘前城の城主である津軽氏は元々大浦姓を名乗っていました。
1590年に豊臣秀吉が小田原征伐を行った際に武勲により、大浦氏も4万5千石の所領安堵の朱印状を受けました。
姓も大浦から津軽に改姓、1594年には津軽平野西部の大浦城から南北朝時代に津軽地方の地頭であった曽我氏の城である堀越城(弘前市堀越字川合)を拠点とし、それまでの本拠であった大浦城(弘前市賀田)より移ります。
しかし、この堀越城は守ることに対して脆弱でした。
1600年、天下分目の関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍についた津軽氏ですが嫡男の信建は豊臣秀頼の小姓として大坂城におり、当然のことながら西軍に属していました。
そのこともあってか関ヶ原出陣中に家臣が謀叛を起こさぬよう、一族の重臣であるものの為信とは対立関係にあった森元信元を暗殺しました。
しかし、為信が出陣し城を空けている間に板垣・尾崎・多田が反乱を起こし、堀越城を占拠、西軍が敗退したことで反乱を起こしたもの達は追討されましたが、その後も騒動で再び城が占拠されたため、堀越城は軍事拠点としては不向きと考え、1603年、新たに弘前城の築城を開始しました。
築城開始から4年後に為信は病床の嫡男を見舞うために京都へと向かいましたが間に合わず、自身も信建が病死してからわずか2ヶ月後の12月に58年の生涯を終えました。
その後、弘前城の築城は三男の信枚に引き継がれ1611年に完成しました。
弘前城の観光ポイント
重要文化財として指定されている天守や辰巳・丑寅・未申の櫓や三の丸・二の丸の門などはもちろん、是非とも見てほしい場所ではあるのですが2017年現在は石垣の修理中です。何年か前に「曳屋」という天守閣がじわじわと移動していく様子が話題になりましたが、今は元の天守の位置から70mほど移動し本丸の内側にあります。
この石垣工事には長い時間がかかるようですが修理する範囲を一度解体し、再度積み直すという作業は滅多に見られるものではありません。
見学用のデッキもありますので、この機会に見てみてはいかがでしょうか。