高遠城
高遠城の基本情報
名所 | 高遠城 別名:兜城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 |
住所 | 〒396-0213 長野県伊那市高遠町東高遠 ☎0265-94-2557(伊那市教育委員会生涯学習課) |
築城 | 不明、1547年頃? |
築主 | 不明、武田信玄? |
入場料 | 無料(見学自由) |
スタンプ 設置場所 | 伊那市立高遠町歴史博物館 |
高遠城の歴史
築城年・築城主ともに不明ですが諏訪氏の支族である高遠氏の居城でした。当時の城主・高遠頼継は甲斐の武田信玄と同盟関係にあった諏訪氏の当主・諏訪頼重(信玄の側室・諏訪御領人の父)とは反目していました。
元々、諏訪氏と武田氏は同盟関係にありましたが信玄が家督を継ぐと諏訪氏との同盟を破棄し、諏訪地方への侵攻を開始します。
この信玄の諏訪地方侵攻に力を貸したのが高遠頼継です。
1542年、信玄は諏訪頼重の本拠・上原城へ侵攻し、諏訪氏は降伏、頼重は甲府に贈られたのち自刃し、諏訪氏の遺領は宮川を境として武田と高遠で分割されました。
しかし、諏訪氏の遺領の領有を望んでいた高遠頼継は武田氏から奪うべく侵攻を開始、1545年高遠城と福与城を武田氏に攻められ落城します。
その後、高遠城は武田氏の伊那における拠点となり、山本勘助や家老の秋山虎繁によって大規模な改修が行われ、城主には秋山虎繁が任ぜられました。
その後は城主を代えながらも武田氏の城でしたが1582年尾張の織田信長が甲州征伐と呼ばれる本格的な武田氏攻めを開始。
当時の城主仁科盛信は信長の長男・信忠の降伏勧告を受けながらも、それを退けて抗戦しますが高遠城は落城し、甲斐も攻められ武田氏は滅亡しました。
武田氏滅亡後は織田の家臣・毛利長秀が城主を務め、本能寺の変で信長が死去した後は徳川の家臣・保科正直が高遠城に入城し、江戸時代には高遠藩の藩庁となりました。
高遠城の観光ポイント
地元民にとって高遠といえば桜と高遠饅頭ですが、高遠城は四季折々の風景がとても美しいところです。春には桜、夏の緑、秋には紅葉、冬には雪景色が楽しめ、いつ行っても風情ある景色が楽しめます。
現在は高遠城址公園として整備されており、公園内には国の登録有形文化財の指定を受けている「高遠閣」や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社などがあります。