鳥取城
鳥取城の基本情報
名所 | 鳥取城 別名:久松城 |
文化財史跡 区分 | 国の史跡 |
住所 | 〒680-0011 鳥取県鳥取市東町2丁目 ☎0857-26-3595(仁風閣) |
築城 | 1532年 |
築主 | 但馬山名氏? |
入場料 | 無料(見学自由) |
スタンプ 設置場所 | 仁風閣(鳥取城跡内) |
鳥取城の歴史
鳥取城は1532年頃に但馬山名氏によって築かれた城だと考えられていますが未だよくわかってはいません。鳥取城の城主として最初に名前が出てくるのは因幡山名氏の家臣であった武田高信からで、高信は主家である因幡守護の山名豊数を鹿野城へ要望させ、山名豊弘を擁立し名目上の守護としました。
その後も主家の山名氏とはしばしば対立するようになり、高信は毛利氏と手を結ぶようになります。
織田信長の家臣で中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は鳥取城攻めを行い、鳥取城は篭城戦の舞台となりました。
この時、篭城戦は3ヶ月にも及び、秀吉が高値で米を買い占めるなどし、さらに鳥取城へと向かう主要な場所は全て羽柴軍に抑えられ毛利からの救援物資も届くことはありませんでした。
城の中の兵糧は尽き、馬や牛を食料とし、草や城の壁に入っている藁まで食べたといいます。
この籠城戦は凄まじく餓死者が出始めると死者の遺体までも食べ、深手を負っている者は殺され食べられたそうです。
当時、鳥取城の城主を務めていたのは毛利の重臣であった吉川経家で惨状に耐えられず降伏、経家の奮戦に感服した秀吉により、戦の原因が抗戦派の家臣たちによるもので経家には咎はないとの理由から助命の上臣従を求められましたが経家は毛利家の重臣としての意思が固く、信長に許可を得て切腹し、鳥取城を開城しました。
1585年、城代として鳥取城に入城していた宮部継潤が九州征伐での功績により正式に因幡と但馬の内5万石を与えられて城主となりました。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、本戦終了後に東軍の亀井らに攻められ開城、池田長吉が6万石で入城し、城も改修されました。
鳥取城の観光ポイント
石垣や堀、井戸などの遺構が残る他、城門が再建されています。また、鳥取城には二の丸の一段上に天球丸と呼ばれる場所があり、池田長吉の姉・天吸引が居住していた場所だと言われています。
この場所には巻き石垣という変わった形式の石垣があります。
これは石垣のたわみなどを抑制するためのもので球面をもち、城郭の石垣を補強するために用いられるのは非常に珍しいものです。
西坂や中坂などの戦国時代の遺構もみられます。